本能が逃げろと告げてくる。
「那月ー!危ない!」
掛け声のせいで振り返ってしまった那月の額にサッカーボールが直撃する。メガネが割れていないかを心配したが、割れてはおらず、胸を撫で下ろしつつ謝罪の言葉を掛けようとした直後、無情にもそのメガネがカシャンと音を立て、地面に落ちてしまった。
それを拾い上げて掛ける、なんて少し距離があるせいで、怒りを如実に表すあいつを前に即座に選択肢から消え失せた。
元から怒りの沸点が低いあいつは那月にボールをぶつけてしまった時点でそのゲージを爆発させるかのごとく、圧倒的なオーラを携え、低い唸り声を上げた。
鋭い眼光が真っ直ぐに俺を射抜き、逃げ切れるかと思案する間もなく、体を捻って勢いよく地を蹴った。それと同時に叫び声が漏れ、何事かとこちらに注目する同期生たちは一瞬遅れて次々に青ざめていく。
振り返る暇など一切与えてくれないそいつは、一目見ただけで肩が萎縮し、足が竦んでしまう猛獣の目をしているのだ。
それでも今こうして、人の間を縫って駆け抜けることが出来るのも、きっと幾度となく対峙してきた経験のおかげなのだろう。しかし、竦む足に鞭打っているのは間違いはなく、一度でも立ち止まってしまえば、生まれたばかりの子馬ばりの震えがやってくることは分かっている。
この状況を打破できる唯一のメガネは元の場所に戻って拾い上げなくてはならない。
だが、グラウンドを2週もしている時点で、拾い上げる暇など与えてはもらえないと察していただけるだろうか。
「ごめんなさ、マジごめんんって!!!!」
「そんなんじゃ、全然誠意が感じられない。土下座したって許してやらねえ」
土下座以上の謝罪なんて俺は知らない。
いや、知ってはいる、けど。
「お前が、止まったらちゃんとっ!!な?ちょっと、落ち着けって、俺だって悪いって思ってるから!!」
全力疾走しながら叫んだせいか、酸素が回りきらず、思い通りに動かない足がもつれ、盛大に転ぶかと思ったが、直前で減速したおかげか転ばずに済んだ。あいつ――砂月に腕を掴まれて、胸の中に引っ張り込まれたからだ。
ぴっちりと締められたネクタイが眼前に飛び込んできて、呆然としたまま、浅く息を繰り返した。
鼓動が煩いくらいに早く、心臓が痛い。
必死で堪えようと砂月の服を掴む力が強まる。
無理に走ったせいもあるけど、恋人に抱きしめられていれば仕方がないというものだ。
離れなければ、いや、その前にちゃんと謝らなければ。
荒く呼吸を繰り返していた砂月はふう、と長い息を吐いて言った。
「いい加減、逃げる前に誠意ある謝罪をするということを覚えろ」
一気に噴出してきた汗を制服の袖で拭ってくる砂月の胸を押し返す。
「……だ、って……お前が威圧するから…猛獣の前に放り出された気分…になるんだよ!」
「小動物には違いねえしな」
「誰が!小動物だ!」
やっとで落ち着いてきた鼓動にやっと酸素が体に浸透してきたような気がする。
「メガネ、拾いに戻ろうぜ」
一声かけて、元の場所に戻る途中で音也がメガネを持ってこっちにやってくる。
「わざわざ追い掛け回さなくてもいいじゃん。本当は仲いいくせに〜」
「そんなんじゃねえけど」
「「本能的に」」
汗を拭いながら苦笑して言った言葉が砂月とシンクロして、思わず砂月の顔を見上げれば、砂月は驚いたような顔をしていた。
……?
「あはは、ハモった!やっぱり仲いいんじゃん!っていうか、ぶつけたとこ大丈夫?保健室行く?」
砂月は音也からメガネを奪うと、保健室とは反対方向に歩いていってしまう。
「……帰る。チビ行くぞ」
「あ、うん。ごめん、音也、また明日なー」
なぜか苦笑する音也と別れて、荷物を持って寮に帰った。
砂月のいう誠意ある謝罪とは、少し前から定番になってしまっているこれ。
向かい合わせで膝に乗せられてがっちり固定された上で、砂月がメガネを掛けて戻った那月の頬にキスすること。
そんな体勢というだけですでに真っ赤になっている状態の俺は、まだ慣れないそれを決死の覚悟で、那月の頬に触れる。
「ごめんな、那月……大丈夫か?」
そんな理由にかこつけなければ、俺は那月と触れ合う勇気が持てないことを砂月は知っている。もちろん、那月もだ。無理に触れ合おうとすれば心臓が痛くなってしまうのを理解してくれているからこそ、大事なところは見逃してはくれない。
にこにこと笑顔を向けてくる那月が頬にとんとんと合図してくる。
「痛いの痛いの飛んでけ〜って言ってくれたら大丈夫な気がします!」
「〜〜〜っ!」
ガキじゃないんだからそんなこと出来るか!といつもなら跳ね除けるところだけど、俺が悪いのには間違いないから、全然痛がっているようには見えなくても、言ってやるのが男というものだ。
「痛いの痛いの、飛んでけ!」
おまけにさっきとは反対の頬にキスをすれば、ふるふると身を震わせた那月が可愛いと叫びながら、お決まりとばかりに顔中にキスの嵐を降らせてくる。
早鐘を打つ心臓に息が上がってきて、ぷしゅーと音が聞こえてきそうな顔で力なく後ろに倒れた。
この男は色んな意味で、危険だ――。
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ハンターさっちゃん。
執筆2012/10/17