那翔メインに砂翔が少し。
この小説は3月〜4月に書いてお蔵入りになっていた小説にあった誕生日ネタを切り取ったものなので、分かりにくいかもしれませんが、時代設定が幕末から明治初頭辺りで2人は着物を着ています。
※かおるんの扱いがちょっとアレなのと、翔ちゃんがモブに襲われそうになるのでご注意ください。
大丈夫な方のみ、ご覧ください。
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春が近づいてきて暖かくなってきた頃に、各地を転々としている四ノ宮那月が俺の地元で演奏会を開くというのを耳にして、薫と一緒に聴きに行った。
舞台の上の那月を何年かぶりに見て、昔と変わらない圧倒的な演奏に聞き惚れ、真剣に弾く姿を夢中で見ていた。
俺は端っこでも前の方にいたから、那月が俺たちに気づいて微笑んだと思った。
家に向かって歩いている時にそれを薫に話せば「翔ちゃんがあまりにも恍惚とした表情で見入ってたから、目に付いたんだよ」と言った。
幼い頃、演奏会に出ることになった俺たちはそこで那月と出会っていたから、薫の言ったことに「違うって絶対、俺たちのこと覚えてたんだって!」って返した直後、背後から能天気な声が聞こえて振り返れば、そこには満面の笑みを浮かべている那月の姿があった。
「ねえねえ、あなたたち双子さんですかぁ?と〜〜っても可愛いです!」
那月がそう言いながら、何の遠慮もなく俺と薫を大きな腕で抱きしめてきて俺たちは死にそうな思いをした。
なんとか放してもらえた時、薫は「ほらね〜金髪で珍しいし双子だから目に付いただけだよ」としたり顔で言った。
さっきと言ってることが違うし、そんなことないって返そうと思ったけど、そんな間もなく、那月は「お名前なんですかぁ?」と聞いてきたのだった。
そう、那月との再会はそんな感じだった。
俺は昔、那月の演奏を聴いてから敵わないと思っただけじゃなくて、それで食べていくという夢までも諦めてしまった。
その当時は那月を敵視してたけど、ヴァイオリンをやめてからはいつの間にか那月のヴァイオリンに対して尊敬の念を抱くようになっていて、そんな雲の上の人だと思っていた那月が目の前に居て、俺や薫に興味を持っている。それは俺にとって願ってもない機会で、仲良くなれたら嬉しいと思った。
俺はその日からヴァイオリンの練習を再開した。一言で言えば単純だったんだと思う。
那月が俺の家に遊びに来るたびにヴァイオリンを教えてもらい、それを踏まえてまた演奏して、悪いところを指摘してもらって、いいところを褒めてもらって、長い間練習していなかったのにも関わらず、俺は順調に上達していった。
何度か教えてもらっているうちに憧れっていうより、ただ一緒に演奏するのが楽しくて、色々とめんどくさい性格の奴なんだなっていう認識に変わっていった。
そうして、いつものように那月と練習をしている時、切れた弦が飛んできて俺は頬を切ってしまった。
「うわ、あっぶねー」
「翔ちゃん、大丈夫!?」
それを見ていた那月が慌てて飛んできて、この世の終わりみたいな顔をしてるから、思わず笑って見せる。
「おうー目に入らなくてよかっ…た…」
那月は頬の傷が浅いことを確認するなり、迷わず俺の傷を舐め上げてきて、その状態で固まってしまった俺を抱きしめて放さなかった。
俺が那月をそういう目で意識し始めたのは、これがきっかけだった。
今までも抱きしめられることはあったけれど、小さくて可愛いだのと言われるのが不本意だったのもあって、これっぽっちもそんな意識なんてしていなかったのに、世界が180度変わったように感じた。
いつもと変わらないやり取りの1つであったそれは俺の鼓動を容易に早くさせて、そのせいで余計に那月を意識し過ぎるようになり、傍に居るだけで鼓動を早まらせてしまうようになる。
元々憧れにまでなっていた人相手なのだから、当然好きを通り越して尊敬という認識があったし、それを恋愛感情として書き換えて受け入れることも容易かった。
ただ、発作とはいかないまでも呼吸が乱れてくる俺を心配した那月に触れられるたび、逃げるように突き放してしまうことも増えていった。
昔から20歳まで持たないと言われていたけれど、それならそれでそこまでは生きたいと思うから、必要以上に近づかないようにして那月の音を出来るだけ長く聴き続けられるようにと、そう願った。
でも、俺の願いとは裏腹に、練習していても那月は物思いにふけることが増えて「もう教えるの嫌になった?」って聞けば、「ううん。今は翔ちゃんの音が聞きたいなぁって」なんて、調子よくかわされて、手本を弾いてみせてもくれなくなっていった。
それでも、家まで来てくれるのは、再会した時に俺が那月に「たまにでいいからヴァイオリンを教えて欲しい」って頼んだからなんだと思っていたけれど、次第に那月は外に遊びに出かけようって言い出すぐらいにヴァイオリンを避けるようになってしまった。
家に居れば、部屋の中である程度離れていても変ではないけれど、一緒に町に出かけて離れて歩くのはおかしいし、でも、離れていないと心臓が持たないから断ることが多くて、その理由を知らない那月との距離が遠くなっていくばかりだった。
そうしているうちに段々と那月が家に来る回数が減って、梅雨に入った頃にはついには全く来なくなってしまった。降り続く雨で気分が余計に沈んで、俺は嫌われたんだと悪い方に考えては自分のせいだし仕方ないんだと自分に言い聞かせるけれど、ただ会うことさえも出来ないことが辛くて苦しくて結局発作を起こすようになり、その頻度も増えていった。
そのせいで、医者が両親に「もうそう長くない」と話しているのを俺は盗み聞きしてしまった。
20歳まで持たないと言われていたけれど、そんな話をするぐらいだからそれよりも短いと容易に分かった。
そんな中、久しぶりに晴れた夜、その日は症状が落ち着いていて、よく眠れそうだと目を瞑っていると、慌てた様子の薫の声が聞こえて、盛大に襖が開かれる音がした。
上体だけ起こしてみれば、眉間に皺を寄せている那月がいた。
普段の那月からは想像もつかない表情で、目が悪いはずなのに眼鏡をかけていないからか目を細めている。
俺に近づいてきた那月の前に薫が立ちふさがる。
「ダメですよ!那月さん!やっと翔ちゃん落ち着いたところなんですから…」
「うるせえ…!いい加減、直接話さなきゃ気がすまねえんだよ!」
薫に掴みかかる那月に驚いて、布団から出て薫と那月の間に割って入る。
「薫、大丈夫か?俺は平気だから……その、ちょっと外してくれ」
渋る様子の薫に「大丈夫だって。それと、盗み聞きしたら口聞いてやんねえからな」と部屋の外へ追い出した。
薫は昔から俺の心配をし過ぎだった。それは嬉しいことには違いないけれど、薫はいつだって俺のことを優先するから、自分のことを考えてないように見えるのが辛くて、最近では特に過保護っぷりが酷くなっていて正直しんどかった。俺の命がもう長くないなんて薫は知らないけれど、だったら尚更自分のことを大切にしてほしくもあった。
振り返りざまに「……お前さ、昔会ったことあるよな?那月じゃねえんだろ?」と聞けば、那月は舌打ちして、「砂月」と名乗った。それから短く説明されて、眼鏡を外した那月は那月ではなく、砂月で…那月は二重人格だったのだとこの時初めて知った。
「そうか…。全然、来てくれないのに久しぶりに現れたと思ったら、鬼の形相だから何事かと思ったぜ」
皮肉をこめて言ったつもりだったのだけれど、砂月は一層眉間の皺を深くして俺に詰め寄ってくる。
数歩後退すればすぐ背後に襖があって、騒げば薫が飛んでくると思って下がる方向を変えてすり避けるように、砂月と距離を取った。
すると砂月は見下すように俺を見て、顔を手で覆い指の隙間から俺を睨んだ。
「全然来てくれないだぁ?それは冗談のつもりか?お前が那月に会いたくなかったのは十分分かった。もう会うこともねえだろうから安心しろよ」
砂月が背を向けて部屋を出て行こうとするから、俺は思わず砂月の腕を掴んだ。
誤解だって言おうと思っても、鼓動がうるさくて息があがりそうで声が出なくて、ただ強く砂月の腕を握ることしか出来なかった。
動機のせいで涙が勝手に滲んできて、膝が崩れてしまった俺を砂月が支えてくれた。
心臓を押さえて浅く呼吸を繰り返す俺を見て砂月は言った。
「……具合が悪いってのは嘘じゃねえようだな」
横に抱え上げられて、近くなった砂月の顔を見ると、さっきまでと変わらず眉間に皺を寄せていたけれど、その力強い腕は那月と同じで俺の鼓動をこれ以上ないぐらいに早まらせるものだった。
布団に降ろされて前屈みにうずくまると、砂月は立ち上がって「医者を呼んでくる」と冷静に言った。
砂月の着物の裾を掴んで、首を横に振って「…じっ…としてれば…治まるから…」とだけなんとか伝えると、砂月は傍に腰を下ろした。
それから砂月は何も言わず、ただ俺を見ていた。
目つきは鋭かったけれど、それは睨んでいるんじゃなくて、目が悪いからだと思えば怯える必要もないんだということにしておいた。
さっきのやり取りだけでも聞きたいことはいっぱいあったのに、しばらくして発作が治まっても、何も言葉に出来なかった。
黙っていると、砂月が立ち上がって俺のヴァイオリンを手に取った。
「まだ、練習…してたのか」
「あぁ…那月は俺の音、好きだって言ってくれてたし…少しでもいい音を弾けるようにって」
そう思ってたんだけど、那月は来なくなってしまったから嫌われたんだと思って、でも、ヴァイオリンぐらいしか那月との繋がりがなくてそれに縋ってただけ、ってのが本当の理由だった。
「それなりに上達したとしても、那月に敵わねえのは目に見えてるだろ?」
初めて砂月に会った時にも似たようなこと言われたのを思い出して苦笑する。
「それ、昔聞いたっての。さっきも言ったろ?那月が俺の音を好きだって言ってくれたから、だよ。つっても、まぁ、初めは憧れの相手と仲良くなりたくて、その道具にしてたんだけどな」
「ふん…大抵の奴はそうだ。機嫌を窺い、媚びへつらい、やがて逃げるように去っていく」
「俺は…」
そんなつもりなくても、抱きつかれるのを避けてたのは確かだったから、何も言えなかった。
「それでも、那月は今までの奴らとは違うと、お前を信じてた」
呟くように言ってから、砂月は捲くし立てるようにして吐き捨てた。
「なのに、体調が悪いと追い返され、見舞いのつもりで花を持ってくれば、会いたくないと突き返された。そうしているうちにヴァイオリンまで弾けなくなるほど弱って、もう関わるなといくら那月に言っても、そのたびにお前が玄関で那月を出迎えるから、いつまでも離れる意思を見せなかった」
俺は那月に会いたくないなんて思ったことないし、そんなこと1度も言ったことないのにどういうことだ?
那月が俺と薫を見間違うはずない…。
ということは、那月があまり来なくなったと思ってた時、薫が那月を追い返してた?
そうだ、あの時期は家に誰か来てもほとんど薫が応対してて、たまに薫が居ない時に俺が出た時しか那月に会ったことがなかった。
最近では那月に会えないことが辛くて胸に負担をかけ、発作が起きるようになってて、それすらも禁止されていた。
それに那月がヴァイオリンを触ろうとしなかったのも、そのせい…って。
「…那月があまりにもお前を信じるから、俺は言い訳を期待してたんだけどな…言葉もないか」
俺が黙っていると砂月がヴァイオリンを置いて、背を向けて襖の方へ歩いていく。
「ちがっ…!」
さっき、砂月は「もう会うこともないだろうから安心しろ」と言った。
だったら、今追いかけなかったらもう会えなくなるってことじゃないのか。
そう思ったら、心臓が跳ねて鼓動が早くなる。そんなの絶対に嫌だった。
砂月を追いかけて、引き止めようと背中に抱きついた。
「那月からは逃げるくせに、何のつもりだ?」
「こうして…分かってもらうしかないから……俺は心臓が弱くて…はぁ……ん……緊張したり、どきどきしたりすると…発作が起きる…」
この鼓動の速さは那月が好きだから、緊張してどきどきしてそうなってしまうんだ。
「傍に居るだけで…ずっとこんな状態で……大変、なんだよ…」
砂月は振り返り、俺を引き剥がして言った。
「だからって、俺が許してやると思うか?」
「会いたくない、なんて…思ったこと1度だってねーし…薫にそう言えって言ったこともない…」
那月に会えなくなってから、俺が発作を起こすようになって薫の過保護具合に拍車がかかった。
同じ部屋で過ごし始め、風呂まで手伝いに来る始末で四六時中、俺の傍から離れなかった。
ヴァイオリンを練習すれば「ここのところ、那月さん来ないね〜」と今だから分かる白々しさだった。
「……なぁ、信じられないなら…信じなくてもいい。俺を、この家から…連れ出してくれないか」
薫を嫌いになったわけじゃないけれど、自然と言葉が出ていた。
残り短い命なら、那月と共に過ごしたい。ただそれだけだった。
そして、砂月は驚くことなく告げた。
「準備しろ。すぐ出る」
砂月に手伝われながら少しの着替えとヴァイオリンを手に、俺たちは家から飛び出した。
病気のせいで箱入り状態で体力がないのもあったけれど、砂月は俺の発作のことを気にして俺をおぶり、荷物を持って那月が借りている宿まで運んでくれた。
那月は明日の朝、町を離れる予定だったらしく、すでにほとんどの荷物はまとめられていて、その前に俺に別れを言いに行ったら、いつものように門前払いされそうになって砂月が押し入ったんだと言っていた。
元々、各地を転々としている那月にとって3ヶ月も同じところに居るのは珍しいことで、それを引き止めていたのは俺が居たからだと言い切られて、なんとなく恥ずかしかった。
「…め、眼鏡、かけねえのか?」
「那月が好きで発作が起きるなら、俺で居る方がマシだろ」
「そう、かも…しれねえけど、それよりもお前らは目が悪いんだろ?」
「俺はそうでもない。人格が変われば、人相まで変わるようだからな」
同じ顔なんだし眉間に皺を寄せなかったら、そうでもないと思うけれど、声質が違うから妙に納得させられた。
「で、眼鏡、かけた方がいいのか?」
「那月に戻ったら記憶飛んだりしねえ?」
「昔はそうだったが、今は互いを認識してるからな…中で寝てたら別だが」
「そっか…発作起きても困るし砂月のままでいい」
砂月におぶわれている間も逃げる緊張より、大きな背中の方に鼓動が早くなってたから、本当はどっちでも同じだと思うんだけれど、そう言ってしまったのは弱っているらしい那月を無理に呼び出さない方がいいと思ったから。
「これからどうすんだ?」
「朝まで待って普通に列車に乗るか、荷にまぎれて夜の貨物列車に乗るかだ。お前が平気なら後者の方がいい」
「そんなこと出来んの?」
「金を渡せばどうとでもなるんだよ。で、どうする」
「…今から行こう」
薫や両親に何も言わず、短い書置きだけ残して出てきてしまったけれど、両親は放任主義だからともかく、薫は怒るか泣くかで大変だろうなと思った。
頭に大きな布を被せられて隠すように促されて端を首に巻けば、軽い荷物を渡される。
「それぐらい持てるか?」
「当たり前だ!バカにしてんのか!何ならそっちも持ってやるよ!」
大きな荷物に手を伸ばせば、するりと奪われて空振った。
「いいや?その細っこいのが気に入ってんだよ」
怒った俺をあしらうように砂月は冗談めかせて言うと、真剣な表情に変わる。
「…お前、後悔しないか。少しでも迷いがあるなら俺は連れていかない」
有無を言わさぬ瞳が俺を射抜くように見るから、それが試されているように感じた。
「しない。会えなかった間、那月を突き放してしまったことをずっと後悔してた。嫌われたんだと思ったら怖くて、会いにも行けなくて…そんなのもう嫌だ……でも、お前らはいいのか…?」
精一杯言って聞いてみると、砂月は微笑んで俺の頭をぽんぽんと叩いた。
砂月は一見怖そうに見えるけれど、根は優しいやつなのかもしれないと思った。
そうして、夜道を歩いて駅まで行き、何事もなく貨物列車に乗り込めた。
そこは木箱が積み上げられていて、窓一つなく余裕があるところはほんの僅かな空間しかなかった。
扉を閉められると真っ暗で、座ろうにも荷物を踏んでしまいそうで目が慣れるまで立っていると、がたがたと乱暴に何かをあける音がして空から僅かな光が差し込んできた。砂月が天井の扉を開けていたのだ。
砂月はその光を頼りに荷物を退けて、座れるところを作るとそのままそこに腰を下ろして手招いた。
そっちに寄れば、手を引っ張られて後ろから抱きしめられる体勢になって心臓が跳ねる。
「寒いか?」
春が過ぎて温かくなってきた方だけれど、まだ夜は寒かった。
梅雨の時期なのだから雨が降らないかの方が心配だし、俺は砂月に抱きしめられてるせいで体温が上がってきて、それどころじゃなかった。
勢いよく頭を横に振れば、砂月は俺のお腹に腕を回してくる。
「お前、やっぱり細いな。収まりが良くて抱き心地がいい」
そういえば、冗談かと思っていたけれど、砂月は細いのが気に入ってる、と言っていた。
チビだって言われてるみたいで、なんとなく嫌だけど、嫌われてはいないようで少しほっとした。
「…ち、近いって」
早くなる鼓動に胸を押さえながら、やっとでそう言えば砂月は俺を一層強く抱きしめて言った。
「俺は寒いんだよ。お前、温けえ」
「上、閉めたらいいだろ…」
人格が砂月で雰囲気が違っても、大きな体や匂いは紛れもなく那月なのだから意識しないようになんて無理な話だ。
那月も砂月もどっちも強引だと思うけれど、砂月の方がそれは強そうで厄介なのかもしれない。
でも、今那月になられたらもっと大変なことになるかもしれないし、少しずつでも慣らす努力をしないと、ただでさえ短い命が更に縮んでしまうことになる。それが俺の場合、笑えないから困るけれど、今日はこのまま頑張ってみようと思った。
「見てみろ、満天の星空だ。窓が小せえのが残念だがな」
月が陰って、よりたくさんの星々が輝いて美しくもあるけれど、梅雨の時期には珍しいそれはまるで何かの物語のようで明日には薫に連れ戻されるんじゃないのかと、砂月の腕を強く握った。
「あのさ…何で那月は俺だったんだろう…。再開した頃はさ、よく薫も好きだって言ってたはずなんだよ」
それが薫にはわざとらしく言ってると気づいたのは、あの頬を切った時のことがきっかけで意識するようになってからだった。
「……初めから、だな。あの舞台上から見ていて、お前よりも薫が目に付いた。だが、それは悪い意味で…だ。薫は初めから那月に敵意しか向けていない。演奏を始める前からずっとだからな、嫌でも目に付く」
「え…?薫はよく那月の演奏褒めてたぞ?」
「それはお前に合わせてただけだろ。双子でも気づかねえもんなのか?」
「……薫は俺と違って賢いから…そういうの得意なんだよ…親はよく世渡り上手って言ってたけど、全然…そんなことないのにな」
そういうことに長けてても、俺の目から見れば薫は俺のために人生を捨ててしまいそうな危うさが俺は怖かった。
双子だからお互いを好きな気持ちは他の一般的な兄弟よりも強いかもしれないけれど、薫に人生をかけてまで俺に尽くして欲しいとは思わない。俺はずっと薫の感じている負い目が重かったんだ。
そして、俺は那月と離れたくないんだってことも。
「でも、何で薫のこと嫌だったのに話しかけてきたんだ?」
「…その薫の隣に居たお前が、憧れと尊敬の眼差しで見つめてくる姿が異様に可愛く見えたんだろう。同時に双子なのにこうも違うのかと興味が――」
「男に向かって可愛いって、バカにしてんのか!」
肩に回された砂月の腕を後ろに跳ね除けてそう言えば、反対の手で顎を掴まれて砂月の方に向けさせられる。
砂月の髪が顔に当たってくすぐったい。
「…実際、可愛い顔してんじゃねえか…褒めてんだよ」
耳元で囁かれて、みるみる体温が上がっていく。
「う、嬉しくねーよ!」
言いながら視線を反らせば、耳に口付けられて反射的に変な声が出る。
砂月は喉の奥で笑って、吐息交じりで囁いた。
「嘘つくな。ここ、熱いぜ?」
断固として嘘ではないのに、熱くなるのは砂月が余計なことするからで…。
「や、やめ…発作起きるって…!」
叫ぶように言えば、砂月はため息を吐いて俺を放した。
「…いい逃げ文句だな」
これだけ近くに居たら俺の心臓の音なんて聞こえてるだろうに、手加減してくれって話だ。
発作というほどでもないのだけれど、前屈みになって落ち着けようと深呼吸していたら、砂月が背中を摩ってくれる。
「家でも思ったんだが、そうしてると特に唆られるな、お前」
「アホか…」
笑う砂月に大きく息を吐くと、額に手を当てられてぐっと後ろに倒されて目を見開けば、砂月は空の星を見上げて、羅列するように言った。
「そのくるくる変わる表情、大きな瞳、華奢な体、ヴァイオリンを懸命に練習する姿、狂信的に見えたお前の態度」
「な、何だよそれ…!」
聞けば、砂月はちらりと俺を見て額を軽く叩いた。
「それらがお前を選んだ理由だよ。覚えとけ」
少しも照れずにそう言うから、俺は何も言えなくなって、そのまま星空を眺めながら背中の温もりに身を預ける。
そういえば、那月と再会した頃、ヴァイオリンの練習で夢中になって夜になっているのに気づかなくて、慌てて帰ろうとした那月は暗いと道が分からないかもと言い出して、薫と一緒に近くまで見送ったことがあった。
その時、那月は星空が好きだと言って、とてもはしゃいでいたのを思い出して頬が緩む。
俺はそのまま砂月に身を預けて眠りに落ちた。
砂月がそう思ってるわけじゃないって分かっているけれど、俺を選んだ理由というのを砂月が言葉にしたことで俺の中では、それが那月と砂月の総意であるような気がして嬉しくなった。
目が覚めると、天井からの明るい光が目に入って身をよじらせれば、俺は砂月の片ももを枕にして寝ていることに気づいて飛び起きた。
「小せえとこんな狭くても横になれんだから便利なもんだな」
「小さいってのは余計だけどな…お前、ちゃんと寝たか?」
「そこそこ?お前は案外度胸あるんじゃねえか」
「なかったらこんな大それたこと言わねーよ!」
砂月が「それもそうだな」と笑ってみせた直後、列車が止まった。
そうして、俺たちは列車を降りて、今度は馬車に乗り込み、雨が振り続ける山を越えた。
那月の今回の仕事は個人客で、その雇い主が開く宴で演奏するというものだった。
雇い主の家に着いてから眼鏡をかけた砂月は那月に入れ替わり、話をする那月は仕事の顔をしていて、普段の那月とは違って見えてかっこよかった。
演奏会での那月もこんな風だったから、ふにゃふにゃした笑顔は俺だけが知ってるのかも、と思って嬉しくもあった。
「一演奏してみてくれないか」という申し出に那月は快諾したから、久しぶりに那月の演奏を聴けるんだと俺まで胸が高まった。
那月は1度ヴァイオリンを構えたのに、「うーん」と首を捻って眼鏡を外して俺に渡してくるから、とりあえず受け取るけれど、その表情は那月ではなく砂月の挑戦的なそれに変わっていて、そのまま砂月はヴァイオリンを見事に弾いてみせた。砂月の演奏は芯が強く、繊細なところも優しいだけじゃなく情熱的だった。
演奏が終われば拍手がわいて、砂月が俺から眼鏡を奪って那月に戻ると、那月は俺に少しだけ悲しそうに微笑んで、雇い主に向き直る。
「いかがでしたか?」と聞く那月に雇い主は絶賛し、早速明日の夜に宴を開くからとそれまでの部屋を俺たちに用意してくれた。
すでに宿は取ってあったし、俺のことはただの付き添いとしか伝えていないのに、俺の布団や食事まで用意してくれた。
襖続きの隣の部屋だったから、同じ部屋で寝ることにならなくてよかったと思ったけれど、俺は気になることがあって襖に近づいて那月に声をかける。
「那月…起きてるか?」
「なぁに、翔ちゃん」
家を飛び出して、ここに来てからも何だかんだでほとんど那月と話していなくて、緊張する。
「あのさ、ヴァイオリン…」
確かに砂月は那月がヴァイオリンを弾けなくなったと言っていたし、今日弾いてみせたのは砂月だった。
ずっとそれが気になってて、でも、那月になんて聞けばいいのか分からなかった。
「…その…砂月も、弾けたんだな…」
「うん。ヴァイオリンを構えたのも久しぶりだったから、上手に弾けるか怖くなっちゃってお願いしちゃった。でも、さっちゃんは僕よりずっと久しぶりなのに、すっごく上手で…力強くて…すごいなぁ…」
「…さっちゃん?」
「砂月だから、さっちゃん」
眉間に皺を寄せている砂月ばかり見ていたから、その似合わないあだ名に俺は思わず噴出してしまう。
「ぷ、はは…あはは……あー似合わねー」
「えーそんなことないのに〜」
否定されてみてから、砂月は微笑んでくれることも多かったなとは思った。
でも、似合いはしないだろ…。
「明日…どうすんの…?」
「またさっちゃんに頼っちゃうかも…ですねえ」
なんで那月はヴァイオリンを弾きたがらないのか、その理由は俺にあるはずなのに、段々と語尾が小さくなっていく那月に、もう聞くことが出来なかった。
「……そっか…悪いな、寝るとこだったのに」
「ううん。本当は、昨日だって僕が翔ちゃんを連れ出したかったんだけど、出来なくてごめんね」
「え、それは俺が砂月でいいって言ったからで」
「違う…違うんだよ…」
目の前の襖が開いて、現れた那月が俺を強く抱きしめた。
俺は早くなる鼓動に急かされるように那月の体を押し返そうとするけれど、びくともしなかった。
「な、那月?」
「翔ちゃんが僕にどきどきするって言ってくれて嬉しかったから、僕は…翔ちゃんをこうしたくてたまらなくて、でも、そうしちゃうと、抑えられなくなっちゃうから…」
俺の発作を心配してくれたってことか?
そこまで言ったかと思うと、俺の体を離した那月は眼鏡を外していて砂月に変わっていた。
「要するに自制が効かなくなりそうだってことだ」
「自制…?」
砂月はため息を吐いて、俺の唇に指で触れると、目を細めて口角を上げた。
「襲いたくなるって言えば、分かるか?」
頭の中で俺の知っている那月と一致しなくて、頭に疑問しか浮ばなくて、砂月の手を振り払う。
「はぁ?ふわふわしてて、ぽわ〜んとしてる那月だぞ!?そんなことあるわけ――」
「ヴァイオリンの才能ついでに那月自身まで神聖視するのはやめるんだな。言っとくが、俺にも限界ってもんがある。せいぜい気をつけるんだな」
砂月がそう言いながら、立ち上がって襖を閉めた。
「……嘘、だろ…」
弱っていると聞いていた那月のことを心配していたけれど、そういうものを全部吹っ飛ばされた感じだった。
列車の中で砂月は唆られるだの細いのが気に入ってるだの言ってたし、砂月なら分からなくもないけれど、那月が…と言われると想像もつかなかった。
抱きしめられそうになって突き放してた時も、那月は傍に居た薫に抱きついてたから、傍から見てるとそれも可愛い癖だな、なんて思ってたのに…。
俺が那月と…?
想像しそうになって頭を振るけれど、考えないようにしようとしても、砂月が言ったことが頭の中でぐるぐる回って、なかなか寝付けなかった。
ヴァイオリンの音の調節をしていると、早くも宴の時間になり、俺まで同席することになっていた。
宴というだけあって、大きな部屋にたくさんの膳が並んでいて、俺は隅の席に居心地悪く座るけれど、打ち合わせをしていた那月が遅れてきて俺の隣に座ってしまって、やたらと注目を浴びているような気がして、那月に小声で耳打ちする。
「お前、もっといい席座れよ…お前有りきの宴会なんだぞ」
「うん?僕には翔ちゃんのお隣が一番いい席だよ〜」
那月は満面の笑みを浮かべて俺に耳打ちしてきて頭が痛くなった。
「大丈夫です。こういうところ初めてじゃないですし、なんとかなりますよ〜」
「そうだな…正直、俺の方がどうしたらいいか分からねーよ…」
「んーと、お酒をよく飲んでる人のところにはあんまり行かないようにしてね」
「あぁ…別に大丈夫だろ。適当に話し合わせて酌するぐらい出来るし、それに俺は呼ばれもしねえって」
心配する那月に笑ってみせると、那月は演奏のために席を外してしまう。
そうして、宴会の初めに紹介された那月は挨拶をして、演奏する直前に眼鏡を外して砂月で演奏を始めた。
ヴァイオリンの演奏は盛り上がるというよりは自然と静聴して聴き入るものだから、和やかな雰囲気で宴会が始まった。
演奏が終わると拍手と共に那月を手招く声があり、お猪口に酌されてそのまま話し相手は眼鏡をかけて入れ替わった那月がしているようだった。
というか、那月って酒飲めるのか…。
遠めに見ながら手前の料理を啄ばんでいると、俺に声がかかる。
「そこの小僧、酌してくれ」
短く返事して、銚子を持ってお酒を注ぐ。
「あの演奏弾きの兄ちゃんと友達なんだろ?」
「友達…というよりは、先生のような存在です」
「ほう……それはヴァイオリンの?ということは君も何か弾けるのか?」
手を横に振って銚子を畳の盆に置く。
「あ、いや…全然。少しかじってる程度で…」
「謙遜しちゃいかん。あれほどの腕のある兄ちゃんが連れてるんだ。それなりに弾けるんだろ?弾いてみてくれよ」
ぽんぽんと肩を叩かれて、困って那月の方をちらっと見ると、那月はヴァイオリンを片手に演奏を始めて、隣の男はそちらに気が移ったようだった。
「いやぁ、先の演奏も素晴らしかったが、今度のも実に素晴らしいね」
その演奏は俺がずっと聴きたかった那月本人の演奏だった。
「ええ、そうですね…」
相槌を打ちながらお酌をして、俺は演奏する那月を眺めた。
記憶の中にある那月の演奏より力強さがなかったのは、練習出来なかった間に失った自信の問題だと思った。
それでも、力強さよりも儚く繊細な技術を要する選曲だったから、この場を魅了するほどの演奏であることは間違いなくて、那月は俺を助けてくれたのかもって嬉しかった。
自然と顔が綻んでいると那月と目が合って、微笑んでくれた。
演奏が終わって拍手が舞う中、那月がこっちに歩いてきたけれど途中で他の人に呼ばれてしまって、那月はそっちの応対を始めてしまう。
「…歳いくつだ?」
「もうすぐ16です」
そろそろ俺の誕生日が来る。
そういえば、那月の誕生日聞いたことないな…今度聞いてみるか。
「もっと若そうに見えたが、16なら飲んでも大丈夫だな。ほら」
言われて空いたお猪口を差し出されて、とりあえず受け取ると酒を注がれる。
でも、俺は酒を飲んだことがなかった。
こぼれそうになる酒に軽く口をつけるだけにして、膳に置いた。
酒の独特な匂いに頭がくらっとして、気持ち悪い。
「まだお酒には慣れなくて…すみません。…どうぞ」
肩をすくめて銚子を持ち、男のお猪口に注ぎ返せば、男は笑って俺の肩を叩いた。
「そうか、無理に飲まなくてもいい」
この男の傍に居れば、飲まされることもなさそうだし安心かも、と思ったのも束の間で、俺は別の人に呼ばれてしまう。
軽く挨拶して、呼ばれた方に足を運べば、上から下まで舐めるように見てくる若い優男に不快感を覚えた。
「君、男?」
俺は短く返事をして、さっきの男の時と同じように酌をして下がろうとすれば、腕を捕まれる。
「あ、そう。って即行、逃げるなって」
嫌な予感が当たったと思った。
腕を引っ張られ、腰に腕を回されて、男の方に引き寄せられる。
「…何を」
「ちょっと、俺の酒に付き合ってくれたらいいんだっての」
遠くの方で世話しなく酌をしている女中がこちらを見て、視線を反らしてしまう。
「酌はしますけど、俺は女じゃないんでそういうのはちょっと…」
腰に回された男の腕を押し返しながら言えば、顔を寄せられて酒の匂いがして殴りたくなるのを我慢する。
「腰ぐらいいいだろ。ほら、大人しくしてれば何もしねえって」
ため息を吐いて「少しの間だけですよ」と言おうと思ったら、俺と男の間に那月が割り込んできて驚いた。
「おお、天才くんじゃねえか」
「どうもです〜〜。ね、翔ちゃん、厠どこだっけ〜?」
「は?」
聞き返せば、那月は耳元で「合わせて」と囁いた。
「厠ァ?んなもん、そこらの奴に聞けば――」
男がそう言って女中に向かって手招きする。
「俺もついでに行ってきます」
軽く頭を下げて、俺たちは女中についてその場を後にした。
廊下に出ると雨音が強くて、宴会場の声が遠くなっていく。
厠まで案内されて、女中が帰っていったのを確認して、大きく息を吐いた。
「…悪い、助かった。男だって確認してから腰に腕を回すなっての…」
「翔ちゃんはそういうの抜きにしても可愛いから…。もう部屋に戻ってて」
「可愛くねえし。でも、俺、那月の演奏聴きたい」
「うーん、これからもっとお酒入るだろうし…いつまで続くか分かんないから…」
そう言われても、俺は引く気になれなかった。
那月の演奏を聴きたいし、またこういう席があるかもしれないから経験は多い方がいいと思った。
「また厠に行く振りして抜ければいいだろ?」
「僕の演奏が口実でも、結局お酒が中心の席だからねえ。特にさっきの人、見境ないって話を耳にしちゃったし、心配なんだよ」
言われて、さっきあの男に腰を撫でられた感触を思い出して身の毛がよだった。
「……鳥肌立った…大人しく戻る…。あとで絶対、俺だけに弾いてくれよな〜」
「うん!」
思い通りになって嬉しいのか、那月が笑顔で頷くから「いっぱいだぞ!」って付け加えておいた。
ついでに厠で用を足して、那月は宴会場に、俺は用意された部屋に戻った。
もう夜も遅いから寝ることにして布団に入るけれど、那月の演奏を思い出して弾いてもらうのが楽しみだった。
雨音と宴会場の盛り上がる声をうるさく感じながら、うとうとしていると近くで戸が開く音がして、那月が帰って来たのかと目を開ける。
そんなに時間経ったか?と思いながら声をかける。
「あれ、那月?もう終わっ――」
「残念〜君がなかなか戻ってこないからさ〜。酒、持って来ちゃった」
盆に乗せた銚子を片手に小さな蝋燭を持っている、さっきの優男だった。
「はぁ、すみません。でも、俺飲めませんけど…」
「あ、ホント?まぁいいや。君、あんま食べてなかっただろ?つまみしかねえけど、食えよ」
俺も飲むと思っていたのか、銚子は2本あって、小皿には乾燥させた豆やスルメが入っている。
案外いい奴なのか?
…いや、油断はしないでおこう…。
「それじゃあ、少しだけ」
銚子を持てば、優男はお猪口を差し出してそれに注ぐ。
「へいへい。可愛い顔してんのにお堅いねぇ…」
「それとこれとは別だと…。それに俺なんか可愛くない。女中さんの方がよっぽど」
「いいや、卑下しても得なんかないぜ」
「根本的に間違ってるんです。俺は可愛いなんて言われても嬉しくない」
それは絶対に間違ってないけれど、那月か砂月に言われたらどうだろうとは思った。
俺だってあんなでかくてごつい奴を可愛いとは思わないけど、でもやっぱり行動とか笑顔が可愛いなって思わせられることよくあるし…言われて嬉しいかどうかの違いで、思うだけならどっちもどっちかなって…。
「ふーん…きっぱり言うやつ嫌いじゃないぜ」
男は一気に飲み干してお猪口を差し出してくるから、俺はそれに再び酒を注ぐ。
「…どうも」
銚子を置いて、スルメを取って口に咥えて噛み切る。
噛むほど味が染みてきて、すごく美味しいもののように感じる。
そういえば、本当にあんまり食べてなかったからかな。
「どうして俺なんかに相手を?」
「ん?最近じゃあ金髪もよく見るようにはなったけど、それでもまだ珍しいし、外人みたいな目してんのに小さいし。天才くんはでけえけどな」
「それが何の関係が…」
「珍しいから気になったって言ってんの。初めは外国語でも話すのかと思ったけどな」
男はお猪口を手前に翳して笑い、それを口元に持っていく。
「あぁ、久しぶりにそれ言われましたね」
やたらと宴の席で注目されてた理由はそれかもしれない。
「珍しいって言われるの嫌だった?」
「いや、髪の色なんかは気に入ってます。小柄なのは嫌だけど」
昔は演奏会で一人だけ色が違ってたり、俺と薫だけ違ってたりしたから、注目されて緊張もしたけれど、目立つのは俺のことを覚えてもらえやすくなるってことだから好きだった。
演奏会に出なくなってからは、色味はちょっと違うけれど、那月と同じ金髪だから好きなままで居られたし、もっと好きになれた。
「小柄でもいいんじゃねえの?可愛さが増すだろ?」
空になったお猪口に酒を注ぐ。もうあと半分もなかった。
「だから、嬉しくないんですって。全然、男らしくない」
そう思ってるのは間違いないのに、砂月に「収まりが良くて抱き心地がいい」って言われたことを思い出して顔が熱くなる。
「刀振り回してんならともかく、演奏弾きやってんなら、別に重要でもない」
言いながら指された方を見れば、俺のヴァイオリンがあった。
家を飛び出す時に、自然とヴァイオリンを手にしていたけれど、それは那月との思い出が詰まってるからだ。
ただの手が早いだけの男かと思ってたけれど、意外とよく見てて話を聞くのが上手いと思った。
単純に俺が話しすぎてるのか…。
「俺はただの付き添いですから」
「それでも、男らしく在るだけが全てってわけでもないだろ。例えば…」
男は俺の肩を引き寄せて、俺の顔を掴んで顔を寄せてくる。
「その可愛い顔を活かして、夜の相手…とかな?」
「冗談…」
男を押し返して顔を離そうとしても、力が強くてなかなか逃げられない。
「男なら孕む心配もねえし、互いに気持ちよくなれる…一石二鳥だろ?」
頬を舐められそうになって、全身が総毛立つ。
精一杯の力を込めて、どんっと押せば男が後ろに倒れて解放される。
「きもち…いいどころか…鳥、肌ものだっつーの…!」
肩で息をしながら後ずさる。
「その様子だと、あの天才くんとしたことなさそうだな」
「は?何で那月が出てくんだよ」
この男の前でそんな素振り見せた覚えはないし…。
「それとも、そんなに嫌がるのは天才くんが夜の方は下手だっただけ…なーんて」
「お前が嫌なんだって分かれよ…」
襟をぎゅっと閉めて、襖の方に徐々に下がれば男がふらつく足取りで立ち上がって近づいてくる。
「いやいや?分かってるからこそ、面白いんじゃねえか。嫌がる奴ほど悦しめる」
寒気と恐怖で顔や体が強張る。
別に油断をしていたつもりはなかったし、いつの間にか話が摩り替わっていた。
「やめろ、本当にやめてくれ……な、つき…」
声が震えて掠れた声しか出ない。
首を横に振りながら後退すれば那月の部屋の襖にぶつかり、手を滑らせて引手を探す。
「また天才くんが助けてくれるとは限らないんじゃねえ?爺どもから引っ張りだこだろうしな」
「だったら、そこまで逃げるだけだ…」
引手に手を掛け、勢いよく開いて走ろうとしたけれど、足を引っ掛けられて前に倒れこんでしまう。
立ち上がろうとすれば、足に乗られて背中に男の体重がかかる。
「させないって」
「嫌だ…!なつ…んん――」
口に丸められた布を突っ込まれ、その上から別の布を噛ませられて、くぐもった声しか出せなくなってしまう。
腕をまとめて背中に回され押さえつけられて、着物の下に男の手が入り込んでくる。
触れられた瞬間、悪寒が走って身震いした。
息がし辛くて、途切れ途切れにしゃくりあげるように息をする。
早い鼓動も辛くて、涙が滲んでくる。
こんな…那月以外に触られるなんて気持ち悪いとしか思えない。
足に力を入れて膝で立とうとすれば、内側から横に足を押されてその拍子に再び前のめりに倒れこんだ。
「もしかして、案外乗り気?こんな突き出してさ〜」
お尻を撫でられて体を震わせる。
変わらず、くぐもった声しか出なくて、男の力は増すばかりだった。
結構、酒を飲んでたはずなのに、どこからそんな力が…。
次いで、腕に布を巻かれて縛り上げられてしまう。
「そんじゃ、早くしないと帰って来られても困るしな」
帯が緩んで着物を捲る音がしたかと思うと、下着に手を掛けられてずり下ろされて、これから何をされるのかと想像すれば更に恐怖で体が強張って、俺はただ頭を横に振ることしか出来なかった。
こんなこと初めてなのに、その初めてが那月じゃないなんて堪えられない…。
割れ目を広げるように左右に引っ張られて、もうダメかと思った時、目の前の襖が開いた。
足元しか見えないけれど、それは間違いなく那月の着物で、無言で部屋に入ってくる那月に怯んだのか男は俺から離れていった。
「ちょっとした冗談だって…そんな怖い顔するなよ…」
那月が俺の傍に寄って、口と手の縛られてる布を外してくれるけれど、そのまま立ち上がって男に詰め寄っていく。
眼鏡は掛けているから那月のはずだけれど、那月のあんな怒りを面に出した顔を俺は初めて見たから、これから那月が何をするのか分からない恐怖を感じた。
「どうしようかなぁ?…あ、そうだ。もう二度とそんな気が起きないようにしてあげますねえ」
後ずさる男の胸倉を掴みあげて、那月が男の股間に膝蹴りを食らわせれば、男は悶絶した。
那月が手を離すと気絶した男は畳に崩れ落ちた。
それを見た途端、俺は堰を切ったように呼吸を繰り返した。
「……はぁ、は……ん、はぁ…はぁ……なつ、き…?」
静かに男を眺めていた那月に声をかければ、ゆっくりと振り返って急いで俺に駆け寄ってきた。
胸を押さえながら那月の腕にしがみついて、那月の匂いを胸いっぱいに吸い込めば、安心感からか涙が溢れてくる。
「ぁ…あ、…っ……あああぁ……那月…なつ、き…ううう…」
「ごめん…翔ちゃん、ごめんね…」
那月が謝るから俺は首を横に振って、那月の首に抱きつくけれど、那月は俺には触れなかった。
那月の温もりが欲しくて…もう大丈夫だって、もっと安心させて欲しくて。
「…俺に…力がないから……ひぐ…っ那月…抱きしめて…」
言えば、那月は俺の背中にそっと腕を回して、優しく抱きしめてくれる。
「もっと…」
縋るように言えば、那月は力を込めて抱きしめてくれて、背中を摩られる。
荒い呼吸がすうっと引くように落ち着いていって、次第に涙も渇いていく。
俺たちはそのまま朝になるまでこうしていた。
那月と居ればこんなにも安心して落ち着くんだって知って、この時を境に、好きだという気持ちから来る緊張とどきどきでは発作は起きなくなっていった。
5月も終わり、6月が始まった。
この前、俺を襲った優男はあの家の跡取り息子だったらしく、雇い主はかんかんだった。
別に使えなくなるほど痛めつけたわけではなかったのだから、反省して改めるように言って欲しいものだった。
しかも、俺が誘ったということになっているのにまた腹が立ったから「あんなやつを誘うぐらいだったら、死ぬか、それこそ那月を誘うっつーの…!」と言ってやった。
そうしたら、相手は絶句して、那月は一人嬉しそうだった。
今度は那月の演奏料を払わないと言い出すから「俺のことを抜きにしても払わないで済む程度の演奏だったのか」と聞けば、夜中にあったことを知らない人が廊下を通り掛かり仲介に入ってきた。
その人は昨日の宴で最初に俺に声をかけてきた男で、どうしても俺のヴァイオリンを聴きたがり、那月と演奏してほしいと言ってきて、渋る俺に那月は「大丈夫」と声をかけ、ヴァイオリンを手渡してくる。
那月のヴァイオリンに合わせるように、追いついて音を重ねていく。久しぶりの那月との演奏に胸が高鳴り、自然と笑顔になって楽しく演奏することが出来た。
本当に楽しいだけで、誰かに聞かせられるようなものではないけれど、精一杯やったからか、男は「それがまたいい」とよく分からないことを呟き、きちんと宴の演奏料を払ってもらうことが出来たのだった。
それはただのきっかけだったけれど、那月と一緒に居られる理由が増えると思って、俺はヴァイオリンの練習に励むようになった。
いつか、那月と一緒にヴァイオリンを弾いて、人に聴いてもらえるような音を紡げたらどんなにいいだろうって目標になったし、この前のように迫られても振りほどけるように少しずつ体も鍛えるようにもなった。
再び別の町に移ってから数日、梅雨はまだ終わらないけれど、俺は少し浮かれていた。
自分の誕生日は伏せて、那月の誕生日を聞けば同じ6月9日だというのだから、そんな偶然に運命を感じないわけがなかった。
本当なら薫も一緒に祝いたいけれど、それは今は出来ないから、精一杯那月を祝おうって思った。
何が欲しいか聞いても、那月は俺と一緒に居られたらそれで幸せだとか、一緒にヴァイオリンを弾いて欲しいとかそんな簡単なことしか言ってくれないし、俺が持ってきたお金は少なくて何かあげると言っても高いものは手が出なかった。
おそろいの小物を買うにしても、2つとなれば結構な値段になってしまうし、那月は甘いものが好きだから、一緒に食べられる菓子にしようと思っても、一番におめでとうって言いたいから日付が変わる頃に団子とかを食べるのもどうかと思って、ああでもないこうでもないと考えていたら、ついには明日が誕生日になってしまった。
「翔ちゃん、ここのところ元気ないですよね…どうかした?」
宿の窓から外を眺めたまま云々唸ってたからか、那月が声をかけてくる。
喜んでもらうために悩んでたのに、それで心配かけたら意味がない。
「久しぶりに星を見たいなぁって思ってたんだけど…」
那月は星が好きだから、晴れてたら一緒に星空を眺めるのもいいな、なんて淡い期待を抱いていたけれど、相変わらずの雨だった。
本当に雨続きで、星は砂月と列車に乗っているときに見たのが最後だったかもしれない。
那月は窓に近寄って、外を覗き込む。
外はもう暗く、家々の明かりもほとんど消えてしまっていて、行灯が薄暗く部屋を灯している。
「雨、止みそうにないですねえ……僕が育ったところはこんなに長い間、雨ばっかり降ることがなくって、この時期でも綺麗な星が見れるんですよぉ」
「へぇ…?那月って、どこ生まれだっけ?」
「蝦夷です!雨より雪の印象の方が強いですねえ」
「聞くだけで寒い…!」
「そしたら、ぎゅ〜〜って!…ね?」
那月は言いながら、俺の手を握って微笑んだ。
あの日、俺が襲われそうになってから、那月はあまり触れてこなくなった。
俺が少しぐらい平気だっていくら言っても聞いてくれないし、宿は2部屋取るほどに俺を気遣ってくれている。
「あぁ…そうだな」
空いた手で那月の手に重ねて笑いかければ、那月はすぐに窓の外を向いてしまう。
今までだったらこんな近くに居たら心臓が止まってしまうんじゃないかっていう心配ばかりで、あんなことがなければ那月と何十年も共にしてやっと那月に慣れるんじゃないかってそんな気がしていたから、今の那月との距離は寂しいものだった。
那月は俺を気遣ってくれているのだから、贅沢な悩みかもしれない。
でも、俺は普通に接して欲しい。
いつも通りの那月に戻ってほしくて、必死で誕生日にあげるものを考えていたんだと思う。
「う〜〜ん。翔ちゃん、お口あけて!」
突然唸りだしたと思ったら、勢いよく俺の方を向くから驚いて後ろに倒れそうになる。
那月は声を上げる俺を無視して、俺の顔を覗き込んでくるからそのまま畳に倒れこんでしまった。
「はい、あ〜んって」
那月は笑顔で何かを摘んで構えていて、声につられて口を開けてみれば何か小さいトゲトゲしたものをいくつか放り込まれた。
口の中でころころと転がせば甘い味が僅かに広がって、がりっと噛んでしまった数個が溶けてなくなってしまう。
「…甘い。これ、金平糖?」
「正解です!本当は明日一緒に食べようかな〜って思ってたんです」
那月は手に巾着を持っていて、その中にある紙で包まれた金平糖を取り出して手の上に広げた。
「大きな星空、とはいかないですけど、金平糖もお星さまみたいで僕大好きなんです」
あぁ、那月らしい考えだな、と思って顔が緩む。
金平糖をきらきらした目で見つめる那月は別に何も変わってないんだと思わせてくれた。
「元気になってくれた?」
俺が何かをあげることに意味があって、それがどんなものだって那月は喜んでくれるんだって分かってた。
だったら、今しかない気がして、まだ1度だってちゃんと伝えたことがなかった言葉を今――。
「あぁ…那月…その、さ……好き…だよ」
でも、どうしても恥ずかしくて、顔を背けてしまった。
那月は喜んでくれてる。そんな期待を込めて、目だけでちらりと那月を見ると、大きく広げた腕を俺の肩辺りで寸止めしていて、その腕がぷるぷると震えている。
「何してんだ…?」
「翔ちゃんを抱きしめたくなって…でも、そうしちゃったら……僕……でも、抱きしめたいしで…」
「ぷ…あっはははー…くくっ…!」
思わず、笑いがこみ上げてきて腹を抱えた。
「何で笑うの〜〜?」
畳に金平糖が散らばっているのが目に入って、余計にツボに入った。
「ど、どんだけ…うくく……慌て、たんだ……あーダメだ…あはっは……ははっ…」
「うう〜〜僕は全然面白くないです!今すぐ抱きしめたいくらい嬉しいのにぎゅって出来ない!!」
体制を戻した那月が膝に手をついて、頬を膨らませる。
「はは……はぁー…。何でだよ…抱きしめればいいだろ。ほら…」
俺は笑いすぎて出てきた涙を拭きながら、那月の手を握って引っ張り込んだ。
那月の背中に腕を回して、肩に頬を摺り寄せて、早くなる鼓動を落ち着けようと小さく深呼吸した。
那月の心臓の音が伝わって来て、ほっとする。
自分の鼓動も早いけれど、そればっかりに必死にならなくなった分、那月の鼓動も聞こえるようになっていた。
そして、それが心なしか早く感じて、俺だけが緊張してたわけじゃないんだって嬉しくなった。
それでも、断固として俺を抱きしめようとしない那月は小さく言った。
「しょーちゃ……嬉しい…僕すっごく幸せ…」
「…黙ってたけど、実は俺も明日が誕生日なんだよな。それってすごいと思わねえ?」
聞けば、慌てて体を離した那月に肩を掴まれて、顔を覗き込まれる。
「す、すごいです!…翔ちゃんと一緒なんて…ええ、本当?どうしよう、僕…何も用意してないよ!」
もうすぐ日付が変わる。2人の誕生日なる。
そんな時に一緒に居られるんだから、それだけでもう十分じゃないか。
「…いや、俺だって用意出来なかったし……ちゃんと抱きしめてくれるだけでいい」
肩を掴む那月の手を握って、今度は目を反らさずに言えたけれど、顔が熱くなっていくのが分かって、目を伏せた。
那月の視線が突き刺さってきて、見るな!って叫びそうになったけれど、背中に腕を回されて、ゆっくりと体を抱き寄せられる。
「…大好き」
首筋に那月の吐息が掛かり、鼓動が落ち着かなくなってきて、逃げるように首を反対に倒せば、那月がくすりと笑う。
「かわいい…」
「それ、褒め言葉じゃねーよ!」
思わず言い返せば、那月は心外だと言わんばかりに強く言った。
「僕はちゃんと褒め言葉として言ってます!」
「だから…俺は可愛いって言われても、嬉しくないって話を――」
「だったら、これからは可愛いの代わりに…」
那月は体を離したかと思うと、俺の頬に手を添えて額と額を重ね合わせてくるから、くすぐったくて近すぎて俺は思いっきり目を瞑って俯く。
「大好きだって、囁くよ」
那月の「可愛い」は一種の愛情表現だって分かってるけれど、それは俺にとって不本意でしかなくて嬉しくない言葉だったから、毎日のように何気なく言われる言葉がそれに代わられてしまうと一気に現実感を帯びて、心臓が大変なことになりそうだった。
「やっぱ…可愛い、でいい…」
やっとでそう言えば、那月はふいと顔を背けて頬を膨らませる。
「嫌です…!もう決めました!」
「な〜つき〜〜」
その頬を拳でぐりぐりと軽く押せば、空気が抜けてぷっと音が鳴り、2人して笑いあう。
ひとしきり笑いあったあとの静寂さえも、那月が傍にいるという充足感で満たされていて、あぁ、俺は幸せだと強く思った。
「……翔ちゃん、誕生日おめでとう…」
夜も更け、日付はとうに過ぎていて、那月はふいにそう言った。
「あぁ、ありがとう…那月も、おめでとう…」
那月は笑顔で頷いた後、瞳を閉じてもう1度小さく頷いた。
薫も、おめでとう…。
「僕、もうそろそろ戻るね」
那月が帰ってしまうことがいつも以上に名残惜しく感じる。
「おやすみなさい…翔ちゃん」
ただ隣の部屋に戻るだけなのに、那月が寂しそうに見えて、立ち上がろうとした那月の着物の袖を握る。
「もう少し…ここに居ろよ」
寂しそうに見えた、なんて言い訳だった。
少しでも長く傍にいて欲しい…それが本音だ。
「…でも」
「あ、いや…眠いならいいんだけど」
ぱっと手を離して、それを横に振る。
「ううん……嬉しい」
那月は言いながら座りなおして、眼鏡に手を掛ける。
「嬉しいんだけど、限界…だから…」
小首を傾げて困ったように微笑んで眼鏡を外そうとするから、思わずその手を止めれば那月がきょとんとする。
「…翔ちゃん?」
そういうことをしたいって思ったから部屋に引き止めたわけじゃない。
でも、限界、ということは那月は我慢してるってことで、今日はもう2人の誕生日だから、そんな特別な日なんだったら、今日ぐらい全部の我慢をやめてほしいって思った。
その我慢も俺のためなんだって分かってるし、俺の心臓だってどうなるか分からないけれど、こうして大好きな那月と一緒に居られることが幸せ過ぎてまだ夢のような気がしていることも、他の奴に襲われそうになった時、例えあれが唐突過ぎたことでも初めてが那月じゃないなんて俺には考えられないし考えたくもないことで…。
「俺…さ……まだ、那月に…その……好き…って言うことしか出来てないし…」
それに、砂月に「那月自身を神聖視するな」と言われたことが俺の中で引っかかっていて、怖いからっていつまでも先延ばしにしてたら飽きられるんじゃないかって、本当はそういう意味だったのかもしれないって思えてきて…でも、それだけじゃなくて、もっと嫌な想像が頭にあった。
俺の命が長くないことは那月はまだ知らないけれど、だから俺は思い切って砂月に連れ出して欲しいと頼んで、残りの短い人生で少しでも長く那月と居られたら、どんなに幸せだろうって。
そして、その幸せを体感している中、結ばれるのなら本望だと。
「平気、だなんて言えないけど…」
自分の震えてしまう声のせいで、俺は緊張してるんだと体温があがってくる。
胸を押さえながら、浅くなる呼吸をどうにかしたくて、空いた手で那月の手を強く握る。
「翔ちゃ……急がないで……僕、自分で我慢するから…!」
那月は慌てて言いながら、俺の体を持ち上げて布団に運んでくれるけれど、本当にそれだけで那月は傍で座るだけだった。
「…那月」
「大丈夫?お水でも持って――」
背中を摩ってくれる那月の方を振り向いて、動く那月の唇に自分のそれを近づける。
それは触れるか触れないかぐらいで口付けとは呼べないものだったけれど、それだけで心臓が跳ねるのが分かって、余計に顔を熱くさせた。
「…っ……俺が、那月に触れて欲しいって言っても…?」
俺は手を握ったり抱きしめたり、本当はそれだけで十分だけれど、抱きしめられることすら大丈夫だって信じてもらえないのなら、それ以上のことで大丈夫だと示すしか、ないだろ?
と言っても、保障は出来たものじゃないんだけれど。
「そんな…可愛いこと言われたら……僕…」
後ろから那月に抱きしめられて、首筋から耳へ向かって口付けられていく。
「ん……俺がいいって…言ってんだろ…」
「でも……壊して…しまいそうで…怖い…」
口ではそう言いながら、那月はやめようとはしなかった。
耳たぶにちゅっと音を立てられて、力が抜けてくる。そのまま、頬に口付けられて、ゆっくりと唇でやんわり撫でられるように吸い付かれて、顔が焼けるように熱いのが那月に伝わってると思ってまた熱くさせた。
「…かわい……んっ…」
やっとで辿りついた唇に熱い吐息がかかって、何度も角度を変えて触れるように重ねられる。
那月の唇は薄くても思ったよりも柔らかいだとか、そうしている那月は俺の目を潤んだ瞳で見つめてきて、恥ずかしくて目を伏せながら視線を逸らせば、そっと体を押し倒されて着物を緩める音が聞こえてくる。
腰を持ち上げられて引き抜かれる帯、那月の腕で支えられる背中、反らすように上がる顎に垂れ下がる頭。
離れないようにと那月の胸辺りの着物を握る手に力が入る。覆い被さるように深く口付けられて、那月の吐息が口の中いっぱいに広がっていく。熱い舌がぶつかって、引っ込めれば那月は俺の上顎をつーっと舐めてくる。
「ぁ…あぁ…」
気が抜けて小さく声を漏らすと、更に開いた口が那月の舌を奥まで誘い込んで肩を震わせた。
されるがままに、でもゆっくりと翻弄される口付けに息が出来なくて、涙が零れてくる。
頬や目、頭が熱くて、熱に浮かされたみたいにぼうっとしてくるけど、気持ちよくてふわふわした感覚だった。
溢れてくる唾を飲み込んで、離れていった那月の唇に銀の糸がひくのが見えて、那月は少しだけ辛そうに眉を寄せていた。
体を下ろされて、忘れていた呼吸を思い出すように繰り返す。
あぁ、俺が辛そうに見えたから…そんな顔してんのか。
「っ…なつ…き……はぁ…ん…っは…」
口付けだけでこんなにもぎゅうと締め付けてくる心臓が邪魔だ。
もう少し、もうちょっと。まだ値を上げるわけにはいかない。
「だいじょ…ぶ……だ…」
「ん…説得力ないです…翔ちゃん…」
手を重ねられて握り返せば、肌蹴た胸に舌を這わせられて体をビクつかせる。
先端を絡めるように舐められ、甘噛みされては小さく吸い上げられて、つられて背中が浮いてくる。
「あ……あっ……ぁあ…那月…んんぅ……はぁ…」
胸なんかで感じていることも、反応して那月を誘うように声を出しているような、そんな気がしてくる自分の甘ったるい声に恥ずかしさばかりが煽られていく。
「…ひあぁあ…」
きつく吸い上げて一度離れた那月は再び先端をぴちゃぴちゃと舐めて、空いた方の先端まで指でくりくりと摘んでくる。
「……翔ちゃん…かわいい…ここ、気持ちいいんだ…?」
しゃくりあげるように息をしながら、仰け反った顔のせいで開きっぱなしの口が渇いて余計に息がし辛かった。
「うっ…あ…っはぁ…ん……ぁん、はぁ……はぁ…」
何か反応を返せば、那月は楽しむようにそこばかりを攻めてきて、熱が止まらない。
鼓動が早くて早くて、でも、発作とはまた違った苦しさで、なんと言えばいいのか分からない。
「好きだよ…翔ちゃん……大好き」
普段の那月からは想像がつかない雰囲気や色気を纏っているのに、肌にちゅっと音を立てて、離れていく黄色く揺れる髪が可愛らしくて、たまらなかった。
その何気ない言葉や仕草一つ一つにこみ上げてくる胸の苦しさ。
あぁ…愛しいってこういうことなのかもしれない。
腰に触れられた手が辿るように太ももまで回ってくると、那月は喉を鳴らした。
「……辛いよね…ごめん、ごめんね…」
眉間に皺を寄せて今にも泣きそうな顔をして、何度も謝る那月が子どものようで、また可愛くて愛おしいと思った。
「…そんな、謝ることじゃ…ねえだろ…?」
「ううん……痛い思いさせるだけかもしれなくて……怖い」
「ったく…お前の方が可愛いっつーの!」
少し体を起こして那月の頭に手を伸ばして、髪をわしゃわしゃと撫でれば那月は小首を傾げてきょとんとする。
「痛くてもいい。苦しくてもいい……俺は那月が…欲しい…」
身も心も、それだけじゃなくて那月が欲しいと思った物も、那月が見て思ったこと何もかもを共有したい、知りたい。全部、全部。
那月の瞳が潤んできて、微笑んだ拍子に涙が零れ落ちるのが見えたかと思うと、那月に口付けられて再び後ろに倒される。そのまま、足を持ち上げられて、下着を剥がされて布と擦れて反射的に体が跳ねる。
舌で歯列をなぞられて、くすぐったくて頭が痺れそうだ。
俺の持ち上がっているものの溝に親指を引っ掛けてぐりぐりと刺激してきて、その快楽に顔を仰け反らせる。
「んぁ…!」
固く目を瞑って、離れかけた唇から声が漏れてくる。
那月は俺の様子を見ながら、気持ちいいところを探ってそこばかり強く刺激してきてたまらない。
反射的にビクつく体が那月の体を押し返して、那月は唇から離れていく。
息を吐く間もなく、声が溢れてきて、首を横に振った。
「あぁ…なつ、ぅんん………ぁあ…や、そこばっか……んん…」
「どうして?気持ちいいんでしょう…?ここは?」
「っやぁあん…!!」
裏の根元を擦られて高い声と共に大きく背筋を反らした。
その拍子に溜まっていた熱を勢いよく吐き出せば、それが那月の着物や自分の体に飛び散った。
胸で大きく息を吸いながらぐったりしていると、那月は掠れた声で小さく「かわいい…」と漏らした。
なんとなく、あの優男が言ったことも悪くないな、と思えた。
那月が可愛いものを見るとぎゅっとしたくなるのは可愛いものが好きだからで、俺の容姿がそこに含まれている安心感というものを感じる。
ただ、そのせいで襲われそうになった時のことを思い出した自分に眩暈がした。
荒くなる呼吸に耐えかねて胸を押さえれば、自分が吐き出した精液がぬるぬると手についた。
一人でしたことがないわけじゃないけれど、その時はあんな声を出したことなんてなかったから、恥ずかしさで逃げ出してしまいたくなった。
俺をじっと眺めている那月と目が合うと、那月は笑顔で俺の手を取り、白く汚れている俺の指を口に含んだ。
「やめ…」
「…ん」
手を思いっきり引いてみても動かなくて、俺の反応を楽しむように見てくる那月から顔を背けるしか出来なかった。
那月は一頻り舐りとおして、俺のものを握らせてくる。
「翔ちゃんのお手手はここですよぉ…気持ちいいように扱ってくださいねえ」
そんなことを言われて呆気にとられていると、那月の指が俺の奥まった箇所に触れてきて、思わず体をよじった。
「な、那月…あのさ……後ろから、やってくんね…?」
「へ…?嫌です!翔ちゃんの顔見たい」
「……そう言うと思ったけど…今日だけでいいから…」
俺は自分から那月に背を向けて、布団にしがみつく。
袖を通した分の着物を引きずって、縛る帯がないせいで着物が腰から垂れ下がって、体を支える膝がそれを踏んでしまう。
「…じゃあ、ちょっとだけですよぉ」
お尻を触られた瞬間、あの時の恐怖が蘇ってくるかと思ったけれど、そんなことはなくてほっと息を吐いた。
顔が見えなくても、ちゃんと那月だって分かってるから、だよな…?
心臓が持つかどうかもそうだけれど、俺にとっては確認したかったことの一つだった。
那月に抱きしめられる時も、肩に軽く触れられる時でも、無闇にビクついたりすることはなかったから当然ではあるのだけれど、それはそういう性的な意味ではないから大丈夫だったのかもしれないと思っていた部分もあったから、那月だからこそ大丈夫だということが知りたかった。
柔らかくて温かいものがお尻に触れてちゅっと小さく吸い付いたそれは確かに那月の唇で、舌でつついて舐めてきて、ふるふると身を縮ませた。
そうしていると、片方のお尻を指で強く揉まれて、ただのツボなのか分からないけれど、刺激されるたびに体がビクビクと跳ね上がって、それに合わせて声が漏れた。
「ひゃん……っあ…ぁ……あん……ふ…」
なんで、そんなとこでこんな…。
でも、今触れられてるのは俺が好きな那月で…ちゃんと気持ちよくて…。
「もう本当にかわい……指、いれるね…」
「ん…」
左右に力を入れて開かれて、さっき少しだけ触れられたところに那月の指が入ってくる。
ぬる、と那月の指を軽々と飲み込んで、1本じゃ全然痛くなくて、なんとなく異物感があるだけだったそこに、もう1本の指が入ってきて、それがそこを広げるように動く。
「小さくて…2本でいっぱい……痛くない…?」
「へい、き…」
そこの痛みなんかより、息苦しい方が辛かった。
心臓が早い。脈の音が聞こえて、頭の中でがんがんと響く。
布団に突っ伏くして、それを強く握り締めながら、大きく深呼吸して荒い息を落ち着けていく。
そうしてみると、強張っていた体が緩んで、那月の指が奥まで入り込んできて、空いた手で割れ目を広げるように掴まれて、少しだけ生まれた空間で中の指が探るように動いた。
那月の長い指が中を擦って、突かれて背中が反れると、お尻をより突き出した形になって膝が震えた。
「……うぁ……ぅう」
痛くても気持ちいいとか、熱くて苦しいとか、見られてて恥ずかしいとか、色んなものがぐちゃぐちゃだった。
「とろとろ……挿れたいけど…もうちょっと…」
言いながら指を僅かに引き抜いて、指の間接で入り口を押し広げてねじ込むように3本目が入ってきて、痛みで体を強張らせた。
「いっ…!」
「あ、ごめ…!」
那月が謝ったかと思うと、空いた手で俺のものを握って強く扱いた。
「ぁあああ…!…あっ……ぁ…はん……はっ……だめ…また出そ…ぁあ…!」
同時に中の指が動いて痛みよりも気持ちよさが勝って体をビクビクと跳ねさせ、何度も扱かれて達しそうになればやっとで手を離された。
呼吸を荒く繰り返して、溢れてきた唾液を飲み込んで、息を吐くけれど、変わらず中の指が忙しなく動いて、背筋を反らせば、張った胸が布団に擦れてびりびりと刺激されて、達しそうなのに出来なくて変になりそうだった。
「…挿れたい……大丈夫?挿れていい?」
「はや、く…おねが…」
言い終わる前に指を引き抜かれて反動で腰が揺れ、それを止めれば割れ目を左右に開かれて熱くて硬い那月のものがあてがわれた。
びくんと体を震わせれば、指とは比べ物にならないそれが、ずぷっと音を立てて入ってきて、痛みで言葉にならない声が喉の奥から高く掠れて響く。
「しょ、ちゃ……息、とめ…ないで…」
苦しそうな声で言われて、息を吐き出してしゃくるように吸い込めば、ゆっくり入ってくるそれにまた体を強張らせた。
「あぁあ…ぁあ……ぁあ」
息なんかできなくて、苦しくて小さく声を漏らした。
そうすると那月がくぐもった声を出すから、痛いのは俺だけじゃなくて那月もそうかもしれなくて、俺が落ち着けば楽になるって言い聞かせて、息を吐いた。
布団にしがみつきながら、膝をついた足を僅かに広げて那月を全部受け入れれば、ぎちぎちと音がしているような気さえして、また息を吐く。
那月が俺の背中にくっついてきて、ぎゅっと抱きしめてくる。
「……翔ちゃんの中…熱くて、とろとろで…ぎゅううって……あぁ、もうイっちゃいそうです…」
繋がっているところが熱くて熱くて、那月の脈の音が直に伝わってきて、たまらない。
でも、後ろからだなんて、那月だと分かってても実感が薄いことに気づいて、あぁ、失敗したなと思った。
「…那月の顔…見たい…」
小さく呟けば、那月は繋がったまま俺の体をひっくり返してくる。
「ひゃあああっーー!!」
その衝撃で繋がったそこが擦れてやってきた快楽のせいで、また熱を吐き出した。
吐き出したそれはひっくり返しながらだったせいで、畳にまで飛び散ってしまっていた。
嬉しそうに笑う那月の顔が目に入って、息がなかなか落ち着かない。
「翔ちゃんが先にイっちゃいましたね〜かわいい…今の、気持ちよかったですかぁ?」
「…でも…裂けるかと…思った…」
小さく頷きながら言えば、那月は俺の髪を撫でてくる。
「ごめんね…」
そして、髪に軽く口付けて離れていく。
「…ばか……お前もイけよ…」
顔を背けてそう言うと、那月は頭をふるふるさせて、俺の脚を持ち上げて、腰を引き抜いた。
「うん……翔ちゃんの気持ちいいとこ教えて…」
空間が生まれて楽になったところを一気に突き上げられて、大きく背筋を反らせる。
「…ひゃ……あん…ん……うう……はっ…」
何度も何度も腰を打ちつけられる音と中で擦られるずぷずぷとした水音が響いて、頭が沸騰したように熱かった。
息が苦しくて、揺すられる体が痙攣したように震えて、最奥まで突かれればより一層高い声をあげる。
痛みが強くて涙が溢れ、同時に痺れるような快楽も体を駆け抜けて、そのどっちつかずな感覚が頭をがんがんとさせる。
涙で歪んだ視界の那月の顔は苦しそうな顔をしていて、突き上げられるたびに那月の髪から汗が飛び散って降り注ぐ。
荒く吐く息と共に漏れる那月の声と自分の声が部屋に響いて、それがまるで俺たちだけの閉ざされた世界のようで、那月とヴァイオリンを弾いている時と似ていると錯覚してしまう。
胸の高鳴りから来る鼓動の早さも苦しさも、痛みさえも、大好きな那月と結ばれているんだと実感できる要素なのだと感じて、そこからはもうそれらさえも愛しく思えた。
那月の眉間に皺が寄ったかと思うと、ずりゅと音を立てながら一気に引き抜かれて解放された瞬間、那月のくぐもった声と一緒にさっきまで繋がっていたところやお腹、足に熱いものが飛び散って、大きく息を吐いた。
「はぁ……はぁ…翔ちゃんに、僕のがいっぱい掛かってる…」
那月がうっとりした顔で言うから、居たたまれなくなってきて腕で顔を隠す。
「そ、ういうこと…言うなよ…」
「…本当のことだもん……僕のものになってくれたって嬉しくなる」
那月は「ここも」と言いながら俺の中に指を入れてきて、もう1度「ここも」と言いながら再び持ち上がっている俺のものを握ってくるから、そのたびに体がびくんと跳ねた。
「翔ちゃんの誰にも見せないところを僕に見せてくれて、僕を感じてくれて…すごく嬉しいんです。……あぁ、ほら、きゅううって」
那月が言葉にするたびに心臓がどうしようもなくなって、体が熱くなる。
指が中を犯して、握られた手で扱かれて、深い熱がこみ上げてくる。
「ぁ……あっ……っは……ふ……んんぁっ…!!」
今度は快楽だけでイかせてくれた。
吐き出した熱が那月のと混ざって、いやらしく光る。
那月はそれに触れながら、星空や金平糖を見た時と変わらないきらきらした瞳で俺を見る。
「もう…かわいい……僕、とっても幸せ」
そして、那月は俺に口付けて隣に寝転ぶと、抱き寄せられて今度は髪に口付けられた。
肌蹴た着物から那月の胸板が見えて、そこに鼻先を摺り寄せる。
那月と一つになれたことが夢のようで、那月の匂いを胸いっぱいに吸い込んで目を閉じた。
心臓の音が那月を好きなんだと更に自覚させてくれて、でも、そんな心臓が最後まで持つとは思っていなかった。
那月と会えなかった頃に弱ってしまった心臓が、那月と一緒に居られるようになって反対に強くなっているのかもしれないと、いい方に捉えようと思った。
そして、これからの自分の人生に対して、少しでも長く那月と居られるようにと、縋れるなら縋れる分だけ何かをしなくてはと思う。
「俺もしあわせだ…那月、好きだぜ…」
そう呟けば、那月の力が増してきて苦しかったけれど、那月もまた「僕も大好き…」と言ってくれて嬉しかった。
fin.
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那翔ちゃんが天使過ぎてたまりませんね。お誕生日おめでとうございます!!
6/9…69と言えば、まあ誰もがざわってする数字だと思いますが…今回は初夜なので(笑)
ごめんねと謝りながら、止められないなっちゃんが私の中でデフォです。
さっちゃんは嫌がってる翔ちゃんに、気持ちいいくせにとかなんとかで懐柔していくイメージが強い。
元の小説には砂翔エロもあるんだけども、それはこれより数年後の話なのでカットしました。
そのエロは今後どっかで使われるかもしれません(笑)
切り取ったこの話の執筆2012/03/20〜30辺り