紙切れ1枚分以上の愛

結婚して5年近くになる那(27)唯♀(25)夫婦の子どもが欲しいとかそういう話。思いっきりシリアス。
唯の一人称は私。
チラッとしか出ませんが、要素としてトキ音美夫婦に子どもが居たり、レン真美夫婦で妊娠してたりします。
いずれも受け(女体)の口調はそのままに、唯以外の一人称は入れないようにしています。
そのほか、唯と真美は名前で呼び合う仲、ということになってます…苗字じゃなくてすみません。
いつものように翔ちゃんから男気が抜け落ちてて、ピュアピュアななっちゃんはいません。さっちゃんは…。
※※病んでます。殴る蹴るとかではないんですがちらっと残酷?暴力的?表現有ります※※
大丈夫な方のみ、ご覧ください。
↓スクロールしてね↓

なだめて、断って。

理由があるとすれば、それは。

タクシーから降りてすぐ、マンションのエントランスに入ると、インターホンを押してカードキーでロックを解除。自動で開いたガラスの扉を通り、エレベーターのボタンを押して、すぐ上の表示を見れば、9階に止まったようだった。待っている時間すら惜しいけれど、小さなトランクと大事なケース、そして小さなかばんまである状況では階段を使うのは止めておく方が良いと今までの経験がそう言っていた。

僕、四ノ宮那月はヴァイオリンとヴィオラ奏者という肩書きを持っている。帰宅時間はバラつきが多く、遠征なんてしょっちゅう。好きでやっていることだけど、お嫁さんを1人で家に待たせるのはとっても心が痛みます。それなのに、何度も一緒に行こうって誘っても、国内ですらついてきてくれません。
本当なら、1日で帰れる距離だって、ううん、1分1秒でも離れたくないのに。

夜の10時過ぎ。3日ぶりの我が家まで来ると、インターホンを押して向こうから開けてもらうのを待つ。
609号室。四ノ宮那月、唯。
表札を確認するまでもなく、玄関扉の傍にはピヨちゃんの植木鉢が置かれていて、その上の窓に取り付けられた格子には黄色とピンクの布が固く結んであって一目で僕のお家だと分かります。
何で布を結んでいるかというと、家に帰ってきたんだとここで1度、心を落ち着けるためにつけたもの。
急いで帰ってることなんて、新婚さんどころか、まだ同棲していたときにもしていたから、唯ちゃんも知っていることだけど、今でも「子どもか」ってよく言われてしまうから、少しでもかっこいいところを見せたくて。
僕のお家でもあるから、鍵で開けてしまえばいいのだけど、どうしてもお嫁さんに迎え入れてもらいたくて、こうして待つのが決まりごとのようになっています。僕のわがまま、ですけど。
それにしても、タクシーに乗っているときに電話を入れて、インターホンだってエントランスのも押しておいたのに、なかなか顔を見せてくれない。
もしかして、中で倒れてるなんてこと…。
あぁ、心配です。

かばんに一度仕舞った、オレンジ色のカードキー・ホルダーと、ズボンのポケットに忍ばせている財布に入っているカードキーを1枚ずつ取り出す。
扉にはオートロック式の鍵が2つあって、1つだと心配だからと1つは個人でつけたもので、唯ちゃんには「最近物騒だけど、理由がアホっぽい」と言われてしまいました。お嫁さんの心配をするのは当然だし、僕はもっとつけたいぐらいなのに「めんどくさいから絶対やめろ」なんて酷いです。

順番に1枚ずつカードキーを翳せば、ピ、ピ、と軽快な音と共に外れる錠の音。
玄関に入るとすぐ、ジャスミンの香りが漂ってくる。ダークブラウンの靴箱の上に置かれた白くて小さな芳香剤。いつもなら心を癒す手助けをしてくれるその香りは、唯ちゃんのことが気になって毒にも近い気がした。
足元を見ても靴が置かれてあるから、部屋には居るはず。
ここで慌ててしまったら、またからかわれてしまう。そう思って、平静を装って少し大きめに声を掛けた。
「唯ちゃーん、帰ったよ〜?」
ヴィオラよりも少し小さなヴァイオリンのケースを肩に担ぎ直し、荷物を玄関先へ置きながら靴を脱ぐ。
リビングにあるテレビがついたままなのか、静まり返ってはいない廊下を抜けようとすると、近くの扉から水を流す音が聞こえた。
「唯ちゃんおトイレ?」
「おう、おかえり」
扉を開けて出てきた唯ちゃんに息を吐く。
「そっか、あ〜ビックリした」
こういうことは何度あっても心配せずには居られない。
僕が迎え入れて欲しいのもあるけれど、些細なことでも唯ちゃんに動いてもらうことが大きな理由だった。
「風呂入るだろ?着替え持ってくる」
7月の終盤、梅雨も明けてしまったからよく見る格好ではあるのだけど、唯ちゃんがピンクのタンクトップとデニムのショートパンツなんてラフな格好をしていては別の意味でも落ち着かない。
「わっ!」
リビングに戻ろうとする唯ちゃんの腕を引っ張り込んで、細くて小さな体を抱きしめる。
腰まで長い金の髪を1つにして緩く結んでいて、家ではお団子にしていることが多いから珍しいのも抱きしめたくなる。
そして、唯ちゃんから香るシャンプーの匂い。
家に入る前よりも、入ったあとよりも、家に帰ってきたんだと強く実感する。ほっとする瞬間。

僕のお嫁さんである、唯ちゃんは元モデルで元タレント。
僕とは何の接点もなかった彼女、そして何より芸能界に疎い僕はよく分からないままバラエティ番組の小さな企画にヴァイオリンの天才奏者としてお呼ばれした。
当時、17歳だった唯ちゃんはティーン向けの雑誌なんかを中心とした人気モデルだったらしいのだけど、年齢を重ねるごとに身長が小さいというだけでモデルの仕事が減りつつあったようで、バラエティにも進出しようとその第一歩が、人気モデルが僕の指導でヴァイオリンを華麗に弾いてみせる、という安易なものだった。
周りは勝手に僕のことを天才奏者なんてもてはやしてくるけど、教えるのが上手というわけでもないし、そんな簡単にはいかないと思っていた。でも、唯ちゃんは過去にヴァイオリンの経験があったようで、僕と会う前に1ヶ月ほど練習をして、柔らかだったであろうはずの指が少し硬くなっていた。
それに触れながら「モデルさんなのにこんなに練習して、それにこんなにちっちゃくて細い手で…」なんて、もう少し何かなかったのだろうか、と思うような褒め言葉を並べた。「当たり前だ」と手を跳ね除けて、ほんのりと頬を染める彼女を思わず抱きしめれば、更にりんごさんのように赤くする。その可愛らしさ、お仕事に真摯に打ち込む姿に、好きにならないわけがなかった。
そして、唯ちゃんは僕のファンだったようで、出会うのは必然だったのだと疑うことすらなかった。

より一層強く抱きしめて、痛がる声が聞こえてきたところでぱっと離す。
「ただいま」
にっこりと微笑めば、桜色に頬を染めて頭を掻く仕草。
「ん…」
結婚してもうすぐ5年が経ちそうな今でもずっと変わらない照れ屋さんなところが本当に可愛い。
「唯ちゃん」
「何?」
「唯ちゃんが食べたい、です」
ついさっきまで照れていたのに、リビングに入る手前で足を止めた唯ちゃんは、すっかりご機嫌ナナメといった様子で呆れたような嫌な顔をした。
「帰って早々かよ」
いつもと何ら変わらないやり取り。
唯ちゃんは素直に僕に抱かれてくれない。
初めてのときのことが怖いんだと思っていたんだけど、数年前にそれは僕の勘違いだったことを知った。
それに3日ぶりに会うのだから、尚のこと、唯ちゃんを肌で感じたい。
唯ちゃんも、そうだよね…?
黙り込んでしまった唯ちゃんに近づけば、1歩後ろに下がる。
すぐ傍の壁にぶつかって見上げてくる唯ちゃんは視線を彷徨わせることなくじっと見つめてくる。
「嫌、つっても聞かねえんだろ」
「はい。大好きです」

髪を解いて白のシーツに散らばった金の髪。
捲りあげたピンクのタンクトップからは白のレースをあしらったキャミソールが覗き、それと対になっている白のショーツが薄っすらと肌に透けている。もう隠す意味を成していない片足だけ通したショートパンツをそっと脱がしながら、茂みでふっくらと押し上げているショーツに舌を這わせた。
「んぅ…」
柔らかく、しっとりと唾液で濡れていくショーツが肌に張り付いて、性を煽る。

寝室にはたくさんのぬいぐるみを並べていて、大きなクイーンサイズのベッド上部にも同じように小さなものから大きなものまでを隅々に置いている。キャラクターのクッションを唯ちゃんの周りに散りばめて、まるで、唯ちゃんがキャラクターの1つになったような錯覚さえ起こさせる。
美しく愛らしい西洋人形。ビー玉のような、こぼれんばかりの大きな蒼い瞳。華奢で白く透き通った肌。
柔らかい唇を連想させるぷっくりとした花弁を暴くように舌でショーツの上から割り込ませる。
そうすると、小さく声を震わせながら大きく胸を上下させて、体を強張らせた。
「ぁ……んん…」
ぴちゃぴちゃと音を立てて舐れば、ツンと形を帯びてくる芽。
唾液で染みていないところまで濡れ始め、愛液が溢れてきた。
「声、聞かせてくれないの…?」
言いながら、小さな芽を唇で挟むようにして弱く吸い上げる。
「ひぁっ……やぁあ、なつき、そこ、ばっか……ううっ…!」
口ではそう言っても体を仰け反らせるだけで、ちっとも説得力がありません。
「きもち、いいんでしょう…?ここ、好きだもんね」
両方の太ももを押し上げて、ショーツの上からはぁ、と息を吹きかけ、閉じてしまった花弁を指で広げて舌で執拗に責め立てる。
「ぁん、ぁっ……ぁぁああっ!!」
体がびくびくと面白いように跳ねて、丸まるように腰が浮いてくる。下にじわぁと広がってくる染みに吸い付けば、しょっぱい味が口に広がった。
その味がたまらなくて、太ももの付け根から横にショーツを捲って、生地と擦れて赤く熟れた果肉にとろりと溢れた蜜を直に一舐め。
「んんっ…!!」
ふるふると身を震わせ、斜めに跳ね上がった足で割れ目が強調される。
「……ふ、ぁ、舌、いやっ……も、蹴り飛ばすぞ!」
「うーん?こんなにもとろとろにしてるってことはもっとして、ってことでしょう?」
「ちがっ……ぁぁあ、だめ、やぁ……なつき、はやく、なつきのちょうだい…」
恥ずかしい声が嫌だと言っているけど、とっても可愛らしくて、もっと離したくなくなるから、無理をさせてしまうこともしばしば。でも、こんな風に早く欲しいというのは嬉しくもあり、また悲しくもある。
それは誘ったときの機嫌の悪さの通り、唯ちゃんは早く事を終わらせたがる方がよっぽど多いからだ。
自らキャミソールを捲って、揉めば痛がるほどの小ぶりな胸を晒して、涙を携えた瞳を硬く瞑る。
いつまでも眺めていたくなる光景にうっとりと見入って、濡れた指で芽をすりあげた。
「やぁぁぁっ…!」
体をうねらせて跳ね上がったかと思えば、ぐったりとベッドに倒れて息を繰り返す。
顔や肌が紅潮し、汗や熱気で瞳をとろんとさせている唯ちゃんから溢れてくる蜜に指を這わせ、そっと沈めていく。
「先にイッちゃったの…?」
「…はぁ……はぁ…ん…指、は要らな…早く、」
「渇いちゃったら痛いもんね……僕も痛いの、嫌だから」
今でも忘れられない、唯ちゃんとの初めて。
1年ほどの同棲期間を経て結婚しようってときに唯ちゃんに別れようと告げられた。
セックスは結婚してから、と今まで押さえ込んできた感情がむちゃくちゃになった。
強引に、ただ強引に責めるように抱いた。
だから、意地悪はしても痛いのだけは、もう絶対にしたくないと思うのに。
緩めていたズボンと下着を下ろし、高ぶりを見せる自身を取り出す。
こんな小さな体で受け止められるのが不思議なくらい、大きくなっている自分のものに顔を歪める。
何年か前に「お前の、挿れられるだけで痛いんだよ」と、言われたことがある。でも、そのあとすぐ「他のやつは知らねえけど、痛いだけだったらこんなことやろうとも思わない」と、フォローを入れてくれた。
優しい、優しい僕のお嫁さん。
「ごめんね…」
儀式のように謝って、ショーツを脱がせることもなく横から捲ったまま、ゆっくりと中に押し込んでいく。
強張る体をなだめるように、優しく芽に触れながら、唇に口付ける。すぐに息ができないと胸を押し返してくるから、唇から頬へと移動させる。
「ぁ、ぁっ……それ、やめっ…!」
ちゅっちゅと啄ばむように柔らかい頬に唇を押し付けて、ずぷりとほとんどを納めた。
「はぁ…」
狭くて熱過ぎる唯ちゃんがやんわりと吸い付いて、自分からひくひくと、入り口を締めようとしていることに愛しさがこみ上げてくる。僕ももっと優しく返せたらいいのに、とどうすることも出来ない欲望に突き動かされて、唯ちゃんの体をそっと抱き上げる。自然と首に腕を回してくる唯ちゃんを落とさないように抱きしめてから、より深くなった挿入に唯ちゃんが体を震わせた。
「ん……動かねえの…?」
しっとりと汗を吸い込んで濡れた長い髪を梳きながら、耳元に唇を寄せる。
「唯ちゃんにしてほしいなぁって」
して、くれるよね…?と、すっと目を細めれば、唯ちゃんがカァと顔を赤くする。
唯ちゃんはセックスは嫌いでも、僕が好きだと分かりきっているから、強気に出られる。じゃないと、お仕事にあんなに一所懸命だった唯ちゃんが芸能界をやめるわけがないんだ。
「寝ろ、よ…」
言われた通り、唯ちゃんの体を抱えて、後ろへゆっくりと倒れこむ。ベッド下部にしわ寄せていた掛け布団の上にボスンと落ちて、体を起こそうとした唯ちゃんをもう一度抱きしめて、「逃げちゃ、ダメだよ」と耳元でそう告げる。びくつく体にちゅっとリップ音を落とせば、恥ずかしそうに唯ちゃんから頬にキスがやってくる。
何度体を重ねても変わらない初々しい反応に突きたくなる衝動を抑え、唯ちゃんが動き出すのをじっと眺めて待つ。
すると、ゆっくりと体を起こして、ついた膝で全部入りきらないように腰を浮かせる。
服の上からぺたぺたと僕のお腹を触ってくるから、Yシャツを脱いですらいなかったとボタンを外そうとすれば、手伝うように下からボタンを外してくる。
「那月とするの、嫌ってわけじゃないからな…?」
「うん…頑張って」
ちゃんと、分かってるよ。嫌だってこと、無理してるってこと。
言わなくても、気遣おうとしなくてもいいのに、唯ちゃんは優しいから、毎回そう言う。これも、儀式のようなものだった。
全部のボタンを外して捲る。袖はそのままに、僕のタンクトップを捲りながら、涙を溜める唯ちゃんの頬に触れて、そっと撫でる。
「だいすき…」
その言葉で唯ちゃんの手が止まり、タンクトップが胸だけを隠した。
「ん……つか、下着、またダメになるだろ…ばか」
何度そう言われても、我慢できないし、一緒にお買い物に行ける口実になる。
「僕が選んであげる」
「お前、生地少ないやつばっか選ぶからやだ」
唯ちゃんは小ぶりな胸を気にしているからか、ブラジャーが好きではないみたいで、僕が選んであげても、プレゼントしてもつけてくれない。たまに、無理やりつけさせてみることはあるけれど、僕に抱きついてきてどうしても恥ずかしがって見せてくれない。どうやら、モデルをしていたときの中学生向け水着や下着のお仕事が影響しているようで、スクラップしていたものを捨てられたことがあった。二十歳直前のお仕事だったから仕方ないのかもしれないけれど、僕以外にもたくさんスクラップしている人はいるはずなのに納得できなくて、内緒で集め直して隠している。
「……も、1回、抜く」
浮かせていた腰を震わせながら、ずるずると引き抜かれていく。
あぁ、こんなにも時間が掛かっていたら、結局渇いてしまっていそうだ、と小さく悔やんだ。
滑いている自身の全体が現れ、それがいやらしく光り、伸びていたショーツがぱつんと音立てて唯ちゃんの肌を打ち付けた。躊躇いなく自分のショーツに手を掛けるから、小さく声を掛ける。
「唯」
下を向いて垂れてくる金の髪から、ちらりと上目遣いで覗かせる蒼い瞳。すぐに伏せられて、勢いよくショーツをずり下ろしてしまう。色気たっぷりに妖しく脱いで、とは言わないし、唯ちゃんらしい幼すぎる反応にぽたりと自身の先から雫がこぼれた。
ショーツを全部脱ぎ捨てて、僕のものにそっと触れたかと思うと、緩く刺激してくるからその手を掴んで止める。
「ダメだよ、分かってるでしょ?」
「1回ぐらい――」
こんなときほど笑顔を作れないことはなかった。
それを自覚しているから、そういうことはやめてほしい。怖がらせたくないのに。

僕は、唯ちゃんとの子どもが欲しかった。
だから、避妊なんてしたことはないし、今もゴムはつけていない。出来るだけ全部中に。
初めてのときからずっとそうだ。でも、唯ちゃんは妊娠することもなく、過ごしてきている。
結婚1年目のとき、病院に連れて行くと、唯ちゃんは出来にくい方だと診断された。でも、唯ちゃんは治療は受けないとの一点張りで、ちょうどその頃、僕自身も性欲が減退していたのもあって、自分に何か問題があるのかもしれないと検査を受けたけれど、特に異常はなかった。
じゃあ何で、とサプリメントだと思って飲んでいたものが、男性ホルモンを抑制する薬だったことを知った。
そのサプリメントは唯ちゃんが可愛らしいピヨちゃんの錠剤ケースに入れて用意してくれたもので、薬品名も知らずに栄養剤だと思って飲んでいたんだ。そして、おそらく――。
そんなに、そんなに僕の子どもがほしくないのかと、責めてしまいそうだったけど、僕が考えているように唯ちゃんにも何か考えがあるんだと、問い詰めることはしなかった。

顔を俯かせたまま腰を浮かせる唯ちゃんを制止させる。
「待って。先に自分で、気持ちいいところ弄って」
「え…?」
「十分に濡れてないでしょ」
言えば、一層頬を赤らめて自分の花弁へと指を這わせた。
「……いける…、なつき、好きだから、それ、見てるだけでもなる…」
それ、とは滴り落ちた先走りが光る僕のものを指していて。
セックスに対して積極的でなくても、自然とそうなってしまう素直な体を知っているから、顔が綻ぶ。
すると、つられるようにして唯ちゃんがふんわりと微笑んだ。
「かわいい…」
「……かっこいい、じゃなくて?」
問いかければ、唯ちゃんは困ったような顔で、「どっちも、だよ」と唇だけ動かした。
くす、と笑って、手を伸ばす。
「おいで」
そろりと伸ばされた小さな手を受け取れば、そこに体重がかかる。
腰を沈める唯ちゃんを眺めながら、なるべく自然なように、何も知らない振りをして呟く。
「赤ちゃん、まだかなぁ…」
何の反応も示さない唯ちゃんは全部沈み込まないように足に力を入れながら、ゆっくりと上下に腰を動かしていく。
「レンくんのところは女の子みたいだし、お友達になれそうな女の子がいいかなぁ。あ、でもトキヤくんのところは男の子多いんだよね、唯ちゃんはどっちがいい?」
「……ん、那月…」
「うん?」
「ぁ、……んん…はっ、なつ…」
リビングなんかで話しているときは「那月に似た子」ぐらい返してくるけど、セックスのときは抵抗のつもりなのか僕の名前しか呼ばなくなる。
それはそれで愛らしく、僕を気持ちよくしようと腰を動かす唯ちゃんの拙くて、深くまで飲み込まない動作に焦れてしまいそうだ。
力いっぱい僕の手を掴んでいる手を下げれば、全部飲み込んでしまうだろうけど、そうすれば唯ちゃんが痛いかもしれない。
上で唯ちゃんにやってもらうのは初めてじゃないのに、やってもらうまですっぽりと頭から抜け落ちてしまう。拙くてもこうされるのが、たまらなく好きだった。
「……んぅ…なつき、……ぁ、ぁっ…!」
荒い息から漏れる、言葉にならない声の中に混じる自分の名前。汗でへばりつく前髪に、揺れる長い髪。時折、送られる熱っぽい視線。潤んだ瞳。零れ落ちる汗に、ちゅぷちゅぷと緩やかに響く音。
唯ちゃんの意識とは別のところにある纏わりつく唯ちゃんのそれに、迫る限界を感じて顔をしかめた。
「……出す、よ…」
大きな瞳が見開かれ、引っ込めようとする手を引っ張り込んだ。
奥の奥、そこには唯ちゃんのいいところが眠っていて、体重が掛かると共に腰を打ち付ける。
「ぁっ、ぁあぁんっ…!」
より締めつけてくる中に熱を吐き出しながら、体を反転させて抱きしめる。
「…はぁ……大好き、大好き……僕の花嫁」

互いに本音をぶつけず、体を重ねることに意味があるのか、と問われれば、ないのかもしれない。
いつか、僕の気持ちが伝わればいいと、諦めきれない赤ちゃんへの期待を込める日々。

それが、結婚してから5年近く続いている。

「はぁ…」
「どうしたの?唯、さっきからため息ばっかり吐いてるよ」
「そうだぞ?何か悩み事でもあるなら聞くが…」
外からは中が見えないマジックミラー張りのカフェレストラン。
オープンテラスもあるけど、この夏の時期に外を選択しようものなら地獄を見ることになる。
ただでさえ、世間に顔を知られている私たちは隠れるように奥の席へと陣取っていた。

落ち着いた店内には昼食を食べに来る20代から30代の女性客が多く、1人でゆったりコーヒーを飲んでいる人も居る。その中で、休日の昼間とはいえ、珍しい子ども連れの家族を眺めながら、もう一度ため息を吐く。
「ちょっと、お腹触っていい?」
手をわきわきとさせてそれを真美に向ける。
「構わんが、今は大人しいからあんまり分からんぞ?」
「うん。もうだいぶ蹴ってくる?」
本当に触ってみても中で眠っているのか、蹴ってくるような強い反応はなかった。
「あぁ……痛いこともあるが、その痛みも幸せに感じるもんだ」
真美が幸せそうに頬を緩ませるから、その幸せオーラに当てられたように目が眩んだ。
もう7ヶ月にもなるお腹を撫でる手つきが優しく、母になるということを肌で実感しているのだろう。

日本三大財閥の1つ、聖川家の長女として生まれた真美は、同じく財閥の1つである神宮寺家の三男坊を政略結婚に近い形で婿を取った。そのため、真美のところは夫婦仲がさほどよくはなく、親に子を求められても人形のように産まなければならないことに嫌悪を示し、長い間冷戦状態だった。
それがいつの間にか仲がよくなり始めたと思った矢先に、子どもを授かったのだ。
真美が言うには、他の女性に目を向け、自分にはちょっかいを掛けるだけだったレンが歩み寄ろうとしてくれたんだとか。それだけで、幼少から続いていたらしい2人の長い冷戦状態に幕を降ろすにはあっさりし過ぎているけれど、それ以上は何も教えてくれなかった。
今、こんなにも幸せな顔を出来るのだから、きっと、真美も素直になれなかっただけなのだと思う。

ちなみに、何でそんな財閥の奥方とお茶をする仲なのかと言えば、同棲を始めたころ那月の料理の腕が壊滅的で自分もさほど上手くはなかったから、真美が個人でやっている小さな料理教室で出会ったのがきっかけだった。
音美の夫を含めた、雑誌などのメディアを賑わせたことのある3人が仲良くなるのに時間は掛からなかった。

「ついに子ども欲しくなったの?」
問いかけてきた音美に首をひねる。
「うーん……那月がすげえ欲しがってるの知ってるだろ?」
「……少しでも欲しいと思うなら早い方がいいよ?子育てって体力要るから」
音美は私と同い年なのに、すでに3人の子どもを育てている母親だ。
夫はモデルで俳優の一ノ瀬トキヤで、小学校からの親友である音美にトキヤを紹介したのは私だった。キューピットと言うほど大層なもんではないけど、たまに優しく声を掛けてくれる芸能界の先輩であるトキヤの、明らかに恋愛感情としての好意を向ける女性に対して冷徹で鉄壁とも言える愛想の無さは、ある種の仮面でもあると知っていた。だから、私は音美の強い押しに加え、適度な距離を取るように仕向けさせた。すると、慎重なはずのトキヤが脆く崩れ落ちた。いや、やっぱり自画自賛してもいい。このカップルのキュービットは私だ。1人で一つ頷く。

「分かってんだけど…」
「素直にならないと損だぞ?」
自分が上手くいったからってそんなことを言う真美のお腹を摩る手を戻して、もう何度目かのため息を吐いた。

アイドルとは違って、モデル兼タレントという職業はそこまで恋愛が禁止、という規則はなかった。
そのため、たまに写真を撮られはしても、相手が弦楽器の天才奏者ということから事務所からそう叱責されることもなく交際は続けられたのだけど、結婚となれば話は別だった。
同棲まで黙認していたくせに何で今更、と思った。
だったら、交際すら認めてくれなければよかったと。こんなにも、好きになってしまう前に止めてくれれば。
そう思わずには居られなかった。
あぁ、自分はこんなにも那月のことが好きなのだから、仕事をやめればいいんだと、すぐに思い至った。
でも、そんなに簡単にやめられるのなら、こんな厳しい世界で何年もやってこられたわけがない。
私は女優への転身を、夢を諦め切れなかった。
別れたくない、そう思うと同時に那月にのめり込んでしまう自分が怖くて別れを告げた。結婚できないのなら、同棲を続けていたって意味がない。今後、他の誰かを好きにならないようにすればいいだけ。そうやって自分に言い聞かせて。
でも、那月が聞き入れるわけがなかった。
順調に進んでいたのに、どうして、と責めるような目で那月は強引に迫った。
2年近くも付き合っていたのに初めてだったそれは、赤い血を流し、体を震えさせ、音美の言うような気持ちのいいものではなかった。
あるのは、痛みと悲しみと、罪悪感。そして、那月を守りたいという母性本能、それだけだった。
それから、仕事を辞めるに至るまで事務所ともめたけれど、那月が傍に居る、結婚するために、と真美やレンの力も借りて、なんとか乗り越えられた。

「子ども、か…」
那月は性欲が強いというか、子作りに熱心で、同棲している間よく我慢してたな、と思うほど、結婚してからは家に帰ってくるたびに迫られていた。だから、那月は髪が薄くなるのが早いんじゃないかと心配して、男性ホルモンを抑える薬を内緒で飲ませている。音美には散々笑われて、真美は「ふむ…うちもあのバカに試してみよう」と言っていた。真美とは理由が違うだろうけれど、好きな要素の一つである那月の髪が薄くなるなんて考えたくもなかったし、私は至って真面目だった。
那月に対して「子どもかよ」なんて言ってはいるけど、自分も十分当てはまる、というのは自覚しているけれど。
「アレ、まだ飲んでるんだよね」
「あ、うん…」
音美は結構な肉食系で遊んでいた経験もあるから、ピルと呼ばれる経口避妊薬を飲んでいた時期がある。
私は音美に話を聞いてもらって、産婦人科を紹介してもらった。那月に病院に連れて行かれそうになったときは、そこの産婦人科に連れて行ってもらって、口裏を合わせてもらったんだ。
「飲むのやめても出来るようになるまで3ヶ月もかかることあるから――」
「んー、覚えとく。サンキュ」
曖昧に答えて、話題を変えることにした。

8月の半ばに差し掛かり、那月はまた出張に行ってしまった。
出張先は海外。フランスだとか言っていた気がする。
一緒に行こう、と何度も何度も食い下がってくる那月をなだめて、断って。
2週間の海外生活ともなると、言葉の壁に苦労することになる。
例え私が英語やフランス語なんかをペラペラに話せても、きっとついていくことはなかったはずだ。
挨拶のキスやハグなんて当たり前でも、そんなの見たくないし、私だってついていけば知らない人から求められる。それに、自分では認めたくなくても、私のような小さな子どもみたいな妻なんて似付かわないと思うから。

大きなオーディオから那月が奏でる曲、作った曲を流し、紅茶を注ぐ。
大雑把な私には那月のように上手に淹れられることは少ないけれど、今回はまずまずといった味だった。
ソファにだらしなく凭れて、天井を仰ぎ見る。
眩しいだけの照明に腕で顔を覆えば、真っ先に思い浮かぶのは、好きだよと、そんな表情で情熱的にヴァイオリンを弾く那月の姿。

初めは憧れに近いものだった。
中学のとき、モデル仲間にクラシックのコンサートに行かないかと言われたことが全ての始まりだった。
指揮者の母親の影響でヴァイオリンを小さな頃にやってはいたから、一般的な人よりは多少興味を引く誘い。
特に用事もなかったし、久しぶりに、と聞きに行ったら、オーケストラとは別にソロで圧倒的な演奏を魅せる那月に吸い寄せられるように釘付けになった。
後のインタビューで「このひと時が楽しくわくわくするようなものになるように、とそれだけを願って弾きました」と、やんわりと優しい口調で話す那月は演奏しているときの真剣な表情とは違って、歳相応のあどけない顔で微笑んだ。
ありきたりな返答なのに、那月が言ったことはその通りだったと、強く、強く胸を打たれた。
その興奮を胸に抱いて家に帰ると、那月のことをインターネットや雑誌で調べて、たまに開かれる発表会などを隠れて見に行った。
本当に、本当にただの憧れでファンの1人だったんだ。
「大好き、大好きだ…」

「唯ちゃんの演奏聴きたいけど、弦じゃなくて違う楽器、キーボードみたいな、そういうのにしない?」
那月はそう言って、私の指が自分のように硬くなって欲しくないんだと笑った。
料理をしたり、それを盛って熱くなったお皿を運んだり、水仕事をしたり、そういうので荒れるのも嫌だけど、それは僕のためにやってくれていることでもあるから、嬉しくもあるんだと私の手にハンドクリームを塗りながら。

子どもが出来て大きくなったら、一軒家が欲しいとか。
その理由がまた那月らしい、と涙がこぼれた。
「今は1人にさせてしまうことが多いから、大きなお家に1人は物騒でしょう?でも、僕たちの子どもたちが唯ちゃんを守ってくれる。それまでは僕たちも守るけど、守ってももらえるんだよ」
そんな犬か、なんかみたいに言うなって思ったけど、那月はすぐこう続けた。
「泥棒さんだったらみんなで逃げて欲しいけど、そういうことじゃなくて、色々、本当に色々あるでしょう?」
今ではもう取材記者は押し寄せて来ないけれど、きっと、那月は私が1人で寂しい想いをしてるんだ、とそれを心配しているんだ。
だから、何度だって一緒に行こうって食い下がってくる。
いくら平気だと突っぱねても、寂しいに決まってる。
那月に会いたいって思わない日なんてない。
私が那月に不釣合いだと思うのも本当。でも、そんなことよりも、演奏中、左手の結婚指輪を右に嵌めているのを見るのが悲しい。私だって弾くことがあればそうするだろうけど、嫌なものは嫌だった。
それに、那月は演奏に対してかなり気分屋だ。会場に私が居るだけで、予定していた演奏と変わったものになって、愛に溢れた音楽は評価を上げ、絶賛される。
でも、それは私にとって心臓に悪いことだった。その溢れんばかりの愛を受け止めきれない。嬉しいのに、私の許容を遥かに超えている。
だから、こっそり変装してバレないように見に行ったとき、落ち着いて聴けると思ったそれはみんなに向けた音楽で、反対に辛くなった。CDや映像なら平気でも、生演奏がダメなんてすごいわがままだ。
そして、今では那月の演奏は聴きに行かなくなった。家で弾いてくれる分だけでいっぱいっぱいだから、関係者席が空いてて悲しいと言われても行かない。

私だけの、那月。
子どもが要らないのも、一緒について行かないのも、私へ向ける音楽を他の誰かに聴かせることも。

醜い、醜い、独占欲。

「演奏、素晴らしかったよ。シノミー」
「ふふっ、来てくれて嬉しいです!」
スーツ姿で抱えていた色とりどりの花束を受け取って、椅子へと促す。
リサイタルも無事終了し、控え室にやってきたのはいつも親身になって相談に乗ってくれるレンくんだ。
学生時代、神宮寺財閥のパーティにオーケストラの一人として参加したとき、子どもがいる、と気になって声をかけてきたうちの1人で、同い年ということもあって連絡を取り合うようになった。
初めは興味本位だったんだろうけれど、僕の演奏を好きだと言ってくれる人の中でそこまで強く僕を特別視しない大事なお友達だ。
今日はちょうどお仕事で海外にきていたようで、自家用ジェット機で見に来てくれたらしい。
「でも、やっぱり、俺はおチビちゃんが見に来ていたときの演奏の方が好きだな。いつもよりももっと真っ直ぐ胸に入ってきて、心が揺さぶられる」
レンくんの感想のあとには毎回この台詞がつく。
僕もそれを望まれているとは分かっていても、唯ちゃんが実際に居るのと、想像で弾くのとは全く違うものになってしまうから曖昧に笑うことしか出来なかった。
同棲しているときは見にきてくれることも多かったし、結婚当初はそうだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
僕も、唯ちゃんも互いが大好きなのに、すれ違ってしまう。
想いが強すぎると、そうなるのかな…。

「真美ちゃんの調子はどうですか?」
「ん…?あぁ、順調だね。8ヶ月、ってところか…お腹もだいぶ大きくなってきて、太ったんじゃないかってからかったら『当たり前だ、ひと一人の命が宿ってるのだから栄養を与えねばならん!』……なんて、ボケてるんだか本気なんだか」
自分のお腹を撫でながら声を真似て話すレンくんは困ったような顔をしつつも、嬉しそうに声を弾ませていて、笑みがこぼれる。
「レンくん、お願いがあるんですけど」
「なんだい?」
唯ちゃんと真美ちゃんもお友達で夫婦で仲良くさせてもらってる間柄だけど、不躾かもしれない。でも――。
「唯ちゃんに出産の立会いをさせてあげて欲しいんです」
真剣な表情に変わるレンくんが考えるように顎に手を置いた。
「…………それは、おチビちゃんが望んでるの?」
「いいえ、僕の勝手なお願いです」
少しでも、赤ちゃんが欲しいと思って欲しい。
そのきっかけは僕であって欲しいと思うけれど、もう5年になってしまう。
付き合えることになって喜んでいたはずなのにそれだけでは物足りなくなって、次に同棲するようになって喜んで我慢との毎日に幸せを感じた。
それが崩れて、赤ちゃんが出来れば、唯ちゃんも別れようなんて言わないって。赤ちゃんは出来なかったけれど、そのことで強引にでも結婚出来たのに、すぐ物足りなくなって、もっとより深く欲してしまう結果になった。
唯ちゃんと僕を結び付ける何か。それが赤ちゃんだと気づくのにそう掛からなかった。今度は本当に利用なんかじゃなく、純粋に唯ちゃんとの赤ちゃんが欲しい。
「うーん、俺からは何とも言えないよ。本人たちがいいって言うなら、構わないし協力はするけど、理由……は聞かなくてもなんとなく分かってしまうな。ただし、今度紹介するレディと――」
唯ちゃんは望んでいないのに無理に産んでもらっても、僕たちの夫婦仲が悪くなってしまうだけかもしれないのに。
いや、もう表面上の関係が長いのかもしれない。

仕事を辞めた当時は雑誌などのパパラッチがたくさん家に押しかけてきてたのもあり、那月が出張中の生活は自堕落で、やる気の起きないものだった。
家に居れば、那月が居ないと実感させられ寂しくなる。でも、家の中が一番那月の匂いがするから外に出たくなくて、余計に閉じこもる。
マスコミ関係が私に興味を示さなくなってからもその生活を引きずって、ご飯を作って食べて、掃除や洗濯などをして風呂に入って寝る。そんな当たり前のことをほとんど放棄していた。
インスタントや手作り以外のお菓子を嫌う那月に、そんな生活をしているとバレないように出張から帰ってくる前にゴミに出して。でも、予定よりも早く帰ってきた那月に見つかって、その次の出張からは電話やメールの量も増え、音美や真美から毎日のようにお茶しようと連絡が入るようになった。那月の差し金だ。
その頃の音美のお腹には赤ちゃんが居るにも関わらず、熱心に誘ってくれて、周りの助け、何より那月のためにと、普通の生活をするようにはなった。

それでも、長期出張となると、段々とだらけてしまって、那月が無駄に集めたクッションやぬいぐるみに埋もれて、ベッドでごろごろする時間が1日の大半を占めている。
跳ねるベッドの上でストレッチをしながら、那月の写真やインタビュー内容をスクラップしたファイルを捲る。
那月に対するインタビューは音楽のことに加え、プライベートな質問も多い。その中にたまに出てくるお嫁さん、そして、どうしても目に付いてしまう子どもの文字。
『いつかは欲しいと思っていますが、まだ2人の時間が大切なので』なんて、嘘をつくなと、本棚を睨む。
そこには那月が集めた子ども関連の雑誌が並び、子ども服や名付けの本、育児本、それに関するエッセイ集…などなど。
那月は子どもを切望している。分かってはいても、その本たちを捨てたくなる衝動は拭いきれない。

今回の出張ではお昼に1回、夜に1回と、最低でも1日に2回は那月から電話が来る。多いときは着信履歴がほとんど那月で埋まる。
内容は天気や何を食べたかなどの何気ない話。その話題の意味は私がちゃんと生活をしているかの確認のように思える。
そして、電話越しのキス。
抱きしめて欲しいなってときは、布団に潜り込む。
たまに電話でえっちしようって言い出すから、無言で切る。すると、慌ててごめんの電話。
私にとって電話でセックスというのは妊娠が絡んでこない分、心が満たされそうな気はしている。でも、恥ずかしくて出来ないし、那月が傍に居ないという虚しさに襲われそうでしたことはなかった。慌てる声が可愛くて聞きたいのもあるけど。

もう14時過ぎ。向こうは朝だから、そろそろ掛かってくるはずだ、とぼうっと眺めていると、着信が鳴った。
那月が私のためだけに作ってくれた曲。心躍るようなものではなく、温かく癒すような優しいヴィオラの旋律。
いつまでも聞き飽きないそのメロディを切ってしまうことに名残惜しく感じながら電話に出る。
「おはよ」
朝から誰ともしゃべっていないから少し掠れた声が出た。
「おはよう。ご飯、食べた?」
那月の心配そうな声音にベッドに倒れこんで、掛け布団を抱きしめる。
ストレッチで体温が多少上がったから、クーラーをつけっ放しにしていて冷たくなった布団が気持ちいい。
「うーん」
「その反応、お菓子で済ませたんじゃないの?怒るよ?」
「違うって、白飯とー味噌汁とあとハムエッグ」
半分以上は嘘。味噌汁はインスタントのものだし、ハムエッグじゃなくてハムだけ。那月の実家から送ってきてもらったやつだ。そして、朝食のようなメニュー、と言われれば、実際にまだ朝しか食べていない。
お昼は那月の声を聞いてからじゃないと食べる気にならないからだ。
「なら、いいけど…」
あまり心配かけたくないし、あとでお昼の写真撮って送ってやろうかな…。

「昨日の夜ね、レンくんが見に来てくれて、それで、真美ちゃんのお産のとき立会いしてもいいか、ってお願いして――」
「はぁ…?」
「えっと、勘違いしないでね?僕じゃなくて、唯ちゃんが、だよ?」
「いや、同じ反応しか出来ないっての。2人はいいって?」
「お友達のためだからって」
音美のときは毎回、部屋の外で待っていたから、わざわざ言ってくるということは分娩室内での立会いということになる。
「レンは来るの?」
「経験になるし、父親としての実感もより強くなるだろうからタイミングが合えば、って言ってましたよ」
レンと真美は人前だと相も変わらず、言い合っていることが多いから、邪魔にならないといいけど。
ちなみに、トキヤは立会いたいタイプのようで出産予定日の辺りはいつでも大丈夫なようにと調整してまでその日を待ち望んでいた。部屋からは「産まれてくる子のためにも、私のためにも頑張りなさい」と励ます声が何度も聞こえてきて、あぁ、私のときも那月に立ち会ってもらいたいな、ってすごく思ったのを覚えている。
那月は実家が牧場だからそういう経験は多いはずだし、私がそう考えるまでもなく絶対立ち会いたいって言ってたから、私の周りの男どもはこぞって強いらしい。

「それに、レンくんが唯ちゃんからお願いしたってことにしちゃったみたいで」
続く言葉は、今更断り辛い、ということだろう。
「……まぁ、端っこで励ますぐらいなら」
どうせ、私に赤ちゃんへの興味を持たせるためなんだろうけど、反対に怖くなって嫌だという気持ちが強まるかもしれないのに。
あぁ、でもそういえば、那月の実家で牛の出産を一緒に見たときは、グロさはありはしても、頑張れという気持ちが強くて最後まで見ては居られたな…って、牛と一緒にしたらダメか。
「約束だよ!絶対だからね」
「わーかったよ!」
「約束のちゅーして」
「何でそうなる…そこまでしなくても――」
「キス、してほしいから。んっ…」
低めた声で言った那月の腕に吸い付くようなリップ音が聞こえてきて、ぞくりとする。
いつもしていることでも、改まって言われると気恥ずかしいのは仕方ない。
クマのぬいぐるみは那月の一番のお気に入りで、那月もよくキスしているからそれに口付けた。
「ちゅっ…終わり!」
そのままぬいぐるみを抱きしめていると、那月が「元気でたよ。また掛けるね」と最後にリップ音を落として通話が切れた。
元気、なかったのかな、と思っても、その原因は私なのかもしれない。
子どもなんて作らなくても、私は那月だけを見てるのに。

また掛ける、そう言ったのに那月から一向に連絡が入ってこなかった。自分から掛けても留守電に繋がり、メールをしても返事は1日1通しかなく、その内容は『ごめんね、忙しかったんだ』の一文。いつものように大好きだよ、と添えて。
いきつけのカフェレストランでそのことを音美に話す。
「1日に最低2回は電話あるし、メールだって送れば一言でも返信あったのに」
ミックスジュースにさしたストローを回せば、氷がからんからんと音を立てた。
今日は私の心を映したかのような雨で、雨音がざぁざぁと聞こえてくる。
8月にしては珍しい、そんな日にわざわざ呼び出して、何?と言いつつも、それでも呼び出して来るぐらいなんだから、よっぽどなんでしょ?と心配そうな顔をされた。
真美は妊婦だし、余計な心配かけないほうがいいと思って呼ばなかった。
「何日ぐらい続いてるの?」
「……2日」
「なんだ。そんなの別に普通じゃん」
これでも深刻なんだよ、と睨みつければ、音美は視線を逸らして頬を掻いた。
「お前らが普通でも、那月は違う。もしかしたら、風邪でも引いたのかも…いつも教えてくれないしごまかそうとするから…」
「……本当に忙しいだけだったりしないの?」
「忙しくてもあいつは電話を掛けて来るやつだ。通話時間、秒単位だってあるんだぞ?」
充電がなかったらそういう旨の国際電話が入るし、メールは届いているから壊れたわけではないようだし。
「ほんと、那月のこと大好きだね。ラブラブじゃん」
「……そういうのじゃなくて、心配なだけだ」
仕事でヘマをやらかしたんじゃないか、なんて心配はこれっぽっちもない。
今までは風邪でも、1日1通なんて極端なことはなかったし余計に不安だ。
「そこまで気になるんだったら、ついて行ってあげればいいじゃん」
それが出来るなら悩まねえよ、と内心に留めて、ため息を付いた。
ストローを咥えて、ずるずるとジュースを吸い上げる。
夏だからか、バナナと桃の味が強く、でも甘いだけじゃなくて、酸味がある。たぶん、パイナップル。
もっとほかにも色々入ってそうだけど、よく分からなかった。
「トキヤが言ってたけど、唯とこの夫婦は『まさに恋は盲目、と言ったところでしょうね』って」
苦笑するしかなかった。
私の頭の中は那月で埋まってて、本当に周りが見えていない。
同棲していた頃の方が心穏やかで、毎日楽しく暮らせていたのに。
「那月が子ども欲しいのって、恋人じゃなくて夫婦になりたいからだったりして。なーんて、本当のとこは知らないけどさ、なんか、前とは違うんだよね。子ども出来ると、さ」
遠くを見つめて話す音美は確かに母親の顔をしていて、じっと見ているのに気づいた音美は、ぱっと手を振って照れを隠すように笑った。
「あれだよあれ、がっつかなくなったんだよ!お互いに!」
昔から遊んでいた音美にとってそれは大きな変化だったのかもしれない。
「チビたちも居んのに、まだしまくってたら私だって引くよ」
「え?でもたまにはしてるよ?」
こりゃ、4人目も近いな、なんてから笑いが漏れた。

心配していたことは杞憂だったのか、音美に話を聞いてもらった日の夜にはちゃんと那月から電話が掛かってきた。
心配掛けたお詫びにえっちしよう?なんて言われて、今回は切らずにバーカって流すだけにしておいた。
大体、こっちが夜なら、向こうは昼だからそんな暇なんてないはずなのに、よほどからかいたいらしい。
それからはあの2日のことを慰めるように、いつもよりも多めな電話にメール。
それが1週間続き、安心しきった私の前にやってきたのは困惑だった。

9月間近になって、家に帰ってきた那月は、インターホンもなく自ら家の扉を開け、私に声も掛けずに真っ直ぐに洗面所へ向かう。
慌ててその背中を追って、自分から抱きつけば引き剥がされて。
ほとんど目を合わせてくれなくて、ネクタイを引っ張って勢いのまま唇にキスを贈る。
見開かれた目が泣きそうな顔になって、突き飛ばされそうになったかと思うと、反対に抱きしめられて。
何がなんだか分からなくて、ほとんど言葉を発していなかったことに気づいて、小さく漏れた言葉はおかえりでもなく、文句でもなく、ただ一言。
「……好きだ」
「……ん、僕も、だよ」
掠れた声で、頭を撫でてくる大きな手に早くなっていた鼓動が落ち着いていくような錯覚。

昨日のことだ。向こうは夜で、ホテルの部屋にいるだろう時間に掛かってきた、早朝の電話。
誰か来た、と言うからちょっと待って、とそのままにして聞こえてきたのは、媚びるような女の声と軽いリップ音。初めは挨拶のキスなんだろうな、と嫌でもそこまで深く考えないようにしていたら、那月はあとで掛け直すね、とそれだけ残して切られてしまった。
フランス語だったから会話の内容までは私には分からなくても、今までその相手が誰か、どういう関係なのかを教えてくれなかったことはなかったから、そわそわして堪えかねて掛けたら留守電に繋がるだけ。そうして、次に掛かってきたのは2時間後だ。
疲れたからまた明日。飛行機乗る前に電話するね、とそれだけの内容。
いつものキスがなくて、でも、自分からせがむことも出来なくて。

体から離れて見上げれば、すっと反転させられて、廊下へ押し出してくる。
「先、お風呂、入っちゃうから」
振り返ると扉を閉められてしまう。
現在の時刻は夜の9時前。
飛行機で12時間ぐらい掛けて帰ってきたわけだから、時差ボケもあるし、疲れてるんだろうなとは思っても、昨日のこともあるしどう考えても様子がおかしかった。
「……飯は何か食べたのか?」
「んー…どうしてもお腹空いてて機内食食べちゃった」
機内食なんて、インスタントのようなものばかりのはずなのに。
ふうん、と流すように相槌を打てば、浴室の扉が閉まる音がしたから、那月が持って帰ってきたトランクに近づく。
スーツや衣装はクリーニングとして、下着や靴下、タオルにちょっとした部屋着なんかを取り出す。
それを持って閉められた洗面所の扉を開いて、それぞれ籠に分類する。
部屋着を手に取ったところで、それを嗅ぐように抱きしめた。
那月が帰ってくるとする、いつもの癖。でも、それには那月の匂い、と、花の匂いがした。
バラ…?
那月は花が好きだし、花束を貰うこともあるだろうけど、どちらかというと香水のような人工的な強い匂い。
それを広げてみるとあからさまな――。
「口、紅…」
どくん、と跳ね上がる心臓を掴む。
ひやりと背筋に汗が伝うのが分かって、落ち着けと目を閉じた。
海外に行ってたんだ、挨拶のキスやハグぐらい当たり前だ。
那月は背が高いから、ハグしたときに口紅がついただけで。

そんなわけないだろ、と洗濯機の中に乱暴に投げ込むことしか出来なかった。
香水が薄っすら移ってしまったぐらいならそこまで怒らないけど、色々と重なれば不安にしかならない。

その服と洗剤だけ入れて洗濯機を回せば、なんとなく救われたような気がした。

リビングに戻れば、つけっ放しだった那月の曲と、テレビの音。
途中でキッチンに寄って冷蔵庫から持ってきた、アロエヨーグルトをスプーンで掬って口に運ぶ。
テレビにはさっきまでやっていたバラエティ番組は終わり、ドラマが流れていて、タイミングがいいのか悪いのか、結婚間際の彼氏が浮気していたという修羅場のシーンだった。
式場まで見に行ったじゃない、そんな台詞にぼうっと思い出す。

私たちの結婚式は籍を入れるまで色々あったから、というのもあるけど、綺麗な教会もウエディングドレスも、ケーキも何も用意せず、たくさんの星空の下で、好きだよと北海道の星空に誓っただけだった。
那月はちゃんと挙げたいと言っていて、そんなんしたら、式の最中に幸せすぎて死にそうだと思った私は嫌だといい続けた。
最終的には「ほら、盛大に結婚式を挙げてすぐ離婚なんて芸能人じゃよくある話だろ?」なんて、言ってみたのが決め手だったらしく、やっとで諦めてくれた。
初めは、それなら、こじんまりすればいいでしょう?と屁理屈をこねるかと思ったけど、しょんぼりする那月の頭を撫でてやって…。

ヨーグルトがぷるぷるした味のないアロエのように感じてきて、リビングテーブルの上に置いた。
リモコンに手を伸ばしてテレビの電源を切ると、CDを入れ替えようとCDラックに近寄った。
昨日の電話以降はほとんど、今はもう居ない那月の片割れ…いや、正しくは那月と統合した、その人――砂月の曲を掛けていた。

砂月の世界は那月と音楽、そして、私の3つで構成されていた。
余所見をせず、真っ直ぐ見てくる瞳は純粋に私に安心感をもたらしてくれるもの。
那月が大事だという砂月の言葉に迷うことなく賛同して、でも、過保護過ぎると笑った。

CDラックにある砂月の棚。一列に収まる量しかない砂月の音楽。そして、無理やり録音させた砂月の声。
那月が居るときにそれらを聞くと悲しそうな顔をするから、那月のものに入れ替えていただけ。
でも、今は砂月の曲が聞きたかった。
手に取ったCDには「流星」という味気ない文字と私が書いた星のマーク。それを書いたとき、砂月に「バカか、そんなキラキラした曲じゃない」と怒られた。
流星なんて名前付けといてキラキラじゃない、って矛盾してる。
CDを取り替えて、ソファに腰掛ける。
流れてきた曲は砂月が言った通り、低音から高温へのそれが流星のようで、また、雷に打たれるような激しいもの。今は心が落ち着くような穏やかな曲よりも、心を紛らわせてくれる曲の方がよかったんだ。
「それ、さっちゃんの…」
「ん……あぁ、久しぶりに、さ…」
風呂から上がったらしい那月の声が聞こえて、横に倒れこむ。
那月は「大好き」とよく言うけど、砂月は「2人を、愛してる」だった。

「いつまで薬、続ける気なんだ?」
「那月に言うなよ」
「……言わねえよ。那月を悲しませるだけだからな。で、いつまで――」
「欲しくなったらに決まってる。今は要らない」
「産むのが怖いなんて単純なもんじゃねえんだろ?」
「全く怖くないって言ったら嘘になるけど、那月が好きだからこそ要らないんだよ…」
「………那月だってお前が好きだからこそ欲しいんだって分かってやれ」
「分かってても、それとこれとは違うし……あんなの、するたびに心が磨り減ってくみたいで…全部那月に言うなよ」
「んなこと言えるか」

あの頃の私は那月に対してよりも、砂月に対しての方がよく本音や愚痴を言えていた。
もしかしたら、砂月の曲を聴きたくなったのは、那月に本音をぶつけたいからかもしれない。
「ヨーグルト、食べないの?」
「要らない」
ソファに伸ばしていた足を持ち上げられて、空いたそこに座ると自分の膝に私の足を下ろしてくる。
那月は水を入れたグラスをテーブルに置く代わりに、食べかけのヨーグルトを手に取った。
その指に結婚指輪があることに安心していいのか分からない。
それにしても、下着を身に着けてはいるけど、肩にスポーツタオルを掛けているだけで、乾かしていない髪から水滴が滴って、クーラーつけてるから風邪引くかも、と思いはしても今日は乾かしてやる気分にならなかった。
「ちゃんと服着て、乾かせよ」
「だって、唯ちゃん持ってきてくれてなかったし」
「子どもじゃないんだから、たまには自分で取りに行け」
えー、と言いながら、ヨーグルトを掬って口に運ぶのをぼうっと眺める。
那月が食べているところを見るのが好きだった。
舐める動作が多い那月は子どものようで、また色っぽくて。

「あーん」
じっと見ていたのが気になったのか、那月がスプーンを口元まで持ってくる。
「要らんっ」
スプーンを避けるように顔を背ければ、那月がそのスプーンを口に含めたかと思うと、顎を掴まれてキスしてくる。
「んんぅ…」
ヨーグルトが口に広がって、味を感じなかったのにいつもと同じ酸味と甘みを取り戻していた。
別にこんなんで機嫌がよくなったわけじゃないけど、拒めなくて流されるように舌を重ねる。
冷たいヨーグルトと熱い舌、吐息。那月の何か言いたげな瞳。
今まで私が勝手に嫉妬しても、それ以上の愛で包んでくれるから、怒ることも当たることもほとんどなかったんだ。

那月が噛んだらしい小さくなったアロエが喉を通って飲み込むと、唇が離れていく。
言いようのない動機が胸を締め付けてきて息苦しい。
キスのせい、だったら、よかったのに。
「おいし?」
首を傾げる那月から視線を逸らして、口元を拭う。
「ん…」
「赤ちゃんに哺乳瓶とか、離乳食とか、そういうの食べさせてあげたいなぁ」
「予行演習になりすらしないな。避けられて即行キスで無理やりとか」
「僕だって赤ちゃんにはキスで食べさせたりしないよ?」
体制を戻したくせにわざわざ顔を寄せてきたかと思ったら、真剣な目で「唯ちゃんにだけ」と、そのまま啄ばむようにキス。

単純すぎて嫌になる。
口では何とでも言えるからそんなものよりも、何も考えないでいいぐらい愛して欲しい。
嫉妬して不安になる必要なんてないって。
赤くなってしまう顔と煩い心臓に背中を押されるように、体を起こす。
「……したい…」
「…?」
自分から誘うことなんて滅多にないし、那月は私がセックスを嫌いだと思ってるから、見当すらつかないらしくいつも首を傾げる。
私が嫌いなのはセックスじゃなくて、赤ちゃんを求める那月の気持ちなのに。
「っ……えっち」
目を伏せて出たのは消え入るような声。でも、那月は耳がいいから、たぶん拾っているはず。
そう思って見上げれば、困ったように微笑む那月の顔があって。
「……ごめんね、疲れてるだけだと思――」
瞬間、音が聞こえなくなって、那月に頬を撫でられて、心臓が跳ねた。
分かってる、分かってるよ。
疲れてたって、出張から帰ってきたらお約束のようにしてたことでも、そういう日があるのは仕方ないって。
でも、何も今日そう言わなくてもいいだろ。

そして、思わずついて出た言葉は残酷なものだった。
「赤ちゃん、欲しいなぁ…」

早く何か言ってくれと、那月の太ももに無意識に爪を立てていた。
「……不妊治療、受けてくれる気になったんだね。それと併せて、がんばろう」

本当は出来にくい体じゃないし、ピルだってやめてない。
私を見て欲しいだけ。

偽りだらけだ。

「結婚するときに大きな障害があったにせよ、互いが互いを好き過ぎて危機感を持ったことがあまりないんだよ。その際たる原因はずっと子どもが欲しいとアピールしているということ。つまり、おチビちゃんはしっかりと絆を感じているわけだ。そこで揺らぐことのなかった愛を浮気しているという振りで揺さぶってみる。試してみる価値はあると思わないかい?」
その提案は辛かったけれど、立会いの条件にされてしまうと断りきれなかった。
初めはよく分からなくて、唯ちゃんからの留守電やメールを見ないようにして。でも、音美ちゃんから病気かもって心配してるって連絡があったから、電話は欠かさないようにして、帰る前日に仕掛けようとレンくんに言われた。
帰ってきてからはボロが出るかもしれないからとあまり顔を見ないように。
そして、レンくんの思惑通りに事が運んだのかもしれないと、あとで何かお礼しよう、と考えながら、唯ちゃんをお姫様抱っこして寝室に連れてきたところまではよかった。だけど、真っ先に飛び込んできたのは、本棚にあったはずの子ども関連の本たちが綺麗さっぱり消えていたことだった。

気づいていない振りをして唯ちゃんをベッドに下ろせば、唯ちゃんが慌ててそこに広げてあった僕の写真やインタビューをスクラップしたファイルをぬいぐるみの下に隠してしまう。
「…寂しかった?」
それだけで頬を染めて、とっても可愛らしい。
「あたり、まえだろ…」
「今度から一緒に行こうよ?」
ふるふると首を横に振る唯ちゃんをベッドに押し倒す。
僅かに捲れたTシャツからおへそが見え、ぴっちりした七分丈のパンツは細い脚のラインを際立たせる。
それに手をかけてジッパーを下ろしながら問いかける。
「どうして?僕の曲、嫌い?」
「なわけないだろ…私は元々那月のファンで――」
隣の部屋からはさっちゃんが作った曲がまだ流れていて、ちらりとそっちを見るから言葉を塞ぐようにキスを落とす。

それを利用したから分かるほどに分かりきっている。
演奏会に招待して、携帯番号を聞いて、電話越しにヴァイオリンやヴィオラを奏でて。
唯ちゃんのために曲を作ってプレゼントして。
好きな女の子を手に入れるため、自分の肩書きを、才能を利用しようと思わないわけがない。
それが僕を形成するものの基盤であり、根底なのだから。

僅かに残るヨーグルトの味と久しぶりの深いキスを堪能し、唇を舐めれば、カァと赤くする唯ちゃんの頬に口付ける。
きちんと乾かしていない髪から唯ちゃんの頬に、肌にぽたぽたと雫が落ちた。
「メガネ、外そうか。さっちゃんが、いいんでしょう?」
唯ちゃんは弾かれるように目を見開いて、小さく首を振るだけ。
外したってほとんど見えなくなるだけだし、例えそれが肯定されたとしても僕はもう大丈夫だけれど、それを伝えたことはないし、嫌だと思わせていた方が僕に執着してくれると、そんなエゴを抱えて。
メガネに手を掛ければ、それを止めるように重ねられる小さな手。
「那月がいい…」
頬に落ちた雫が泣いているようで、昔の僕は唯ちゃんの中にさっちゃんが居ることに心が揺らいでたんですよ、と心の中でレンくんに囁いた。
さっちゃんは僕を守ってくれた人。その中で、唯ちゃんも守ってくれて。そんなさっちゃんが大好きで、唯一心残りなのが、僕は自分で唯ちゃんを守ってみせたかったということ。

例えば、取材やファンに囲まれたとき。
例えば、唯ちゃんが風邪を引いたとき。
僕はお料理が得意だと思っていても、唯ちゃんのお口には合わなくて、動けない唯ちゃんの代わりにさっちゃんが食事を作って看病していたこと。
例えば、結婚するときのバッシング。
祝福が多い中、事務所ともめたときの問題にすり返られることも少なくなくて、それにつられるようにファンからの手紙に誹謗中傷がちらほらとあった。交際中は好意的に見えても、それは唯ちゃんが仕事を通してファンの前に姿を現していたからで、その機会が突然なくなれば、不満が募ってしまうのは仕方がないことだったのかもしれない。
そうして、ストレスが溜まった唯ちゃんの愚痴を聞いていたのは僕ではなく、さっちゃんで。
他にも埋まらない記憶がいくつかあるから、僕が知らないことがあるはずだった。

結った髪を解いて、シーツに散らばった髪を指に絡めて口付ける。
「ねえ、お薬、やめるよね?」
途端にびくつく体に、意地悪く言うことしか出来ない。
「あれ、知ってるの気づいてなかった?いつまでも子どもじゃ、ないよ」
視線を彷徨わせる唯ちゃんの瞳に涙が浮かんでくる。
唯ちゃんがビタミン剤だと言って薬を飲み始めたときは、ストレスで食が細くなってしまっていたのもあったし、僕に用意されたものだって僕のために飲んで欲しいと言われたら、それで安心してくれるならと喜んで飲んでいた。
でも、産婦人科で、赤ちゃんが出来にくい体だと診断されて不妊治療を受けていないからって、僕の薬の前例があったのだから、気にならないわけがなかった。
そして、事実を知ってからは唯ちゃんの持っている、経口避妊薬の中身を入れ替えたり、部屋に閉じ込めて薬を飲ませないようにしたり、そういうのを考えたことがなかったわけじゃない。
そこまでしてしまったら、夫婦の関係がそれこそ終わってしまう。そう思って、出来なかった。
「わ、私だって、お前があのサプリ飲んでないこと知ってる…」

本音を言うチャンスがやっと訪れた。そんな、気がした。
大事なことから目を背けて、でも、唯ちゃんは僕を好きだと分かってるからこそ、どうしてと。
出産は命に関わることだと僕だって知ってる。でも、この衝動を抑えられるのなら。
「……そんなに、そんなに、僕の赤ちゃん欲しくないんだ?」
ちらりと本棚に目をやれば、見るなとでも言うように腕を引っ張ってくるから、唯ちゃんの上に倒れこんでしまう。
「那月は…私を見てない」
腕で体を支えて潰してしまわないように、唯ちゃんの瞳を覗き込む。
見ていない、それがどういう意味であろうと僕には唯ちゃんしか見えていないのに。
赤ちゃんが欲しいのも、一番は唯ちゃんとの絆を深めるため。
そして、僕が居ない間の生活改善は必要だった。
何かを守る、そのことが唯ちゃんを突き動かす原動力になるのだと知っているから。
辛いだけかもしれない。でも、そこには確かに心に彩りや豊かなものを与えてくれると、信じてやまない。

「赤ちゃん、欲しいって言っただけで、疲れててもこういうこと、しようと思えるんだろ…?那月は、私じゃなくて赤ちゃんを好きなんだ。まだ生まれても、宿ってもいない赤ちゃんが、もう何年もここに、居座ってる」
胸をトンと叩かれて、そんなわけないよ、と思っているのに鼓動が早まってくる。
僕が、何年も唯ちゃんの赤ちゃんが欲しいと、それを願って抱いてきたから、そう捉えられても仕方なくて、僕には抱きしめる以外の選択肢がなかった。
「唯ちゃんが好きだから欲しいって気持ち、無視しないで」
首筋に顔を埋めて、ただ、大好きと囁く。
頭を撫でるように髪を梳いてくる震える手にそっと顔を見れば、僕の大好きな、蒼く澄んだ瞳から次々に涙が溢れ出してきて、掠れた、微かな声で懺悔するかのように紡がれた言葉。
「……私は…那月だけ、愛したい」

そこに愛があるのなら、僕だけを愛してくれなくてもいいと、はたして言えただろうか。
大丈夫って言えない、言い切れない旦那さんでごめんなさい。

それでも僕は、あなたの子が欲しいんです。

「ぁ、ぁっ…ぁあっ、那月、んん、好き…すき…」
何度も、好きだと声を枯らすように口にする唯ちゃんから絶え間なく涙が零れてくる。
微笑みかけて欲しいから、微笑む。好きだと言ってほしいから、好きだと囁く。それは互いが互いを好きだからこその特権。
でも、抱きしめる意味だけは、ちょっとだけ違うかもしれない。

暗い部屋の僅かな灯りが唯ちゃんの白い肌を浮かび上がらせる。
またショーツを脱がさずに挿れてしまったから、怒られそうだと口の端が上がるけれど、唯ちゃんはそれすらも忘れてしまったかのように首を横に振る。
「やぁ、なつき、もっか、い……ひぁあぁっ!」
僕の可愛らしいお嫁さんの誘いに乗って、一度引き抜こうとした自身を再度押し込んだ。
吐き出した熱がじゅぷりと音を立て、唯ちゃんの中で纏わりついてくる。
「…はぁ……9月6日、唯ちゃんのために、演奏する…から…聴いてくれる?」
9月6日。それは僕たちの結婚記念日だ。
運命以外の何ものでもない2人の誕生日をひっくり返した数字。2人で迷うことなく、その日に婚姻届を出した。
2人の誕生日だと知るまで、あまり気にしていなかった数字が特別なものに変わった瞬間。
「ん……ぁ、ふぁ…ききたい…」
「よかった。レンくんやみんな、僕たちのこと気に掛けてくれてるから、呼びたいなって」
あの作戦が、上手くいったとは言えないけれど、ずっと聴きたいと言ってくれているレンくんには、それが一番のお礼になるだろうから。
「……やだよ。私に、くれる演奏なんだろ?…誰にも聴かせてあげない」
珍しい。唯ちゃんからのセックスのお誘いは少ない分、そのときばかりは欲望に忠実だけれど、すごく、珍しかった。
お友達を呼ぶときは渋々でもいいと言ってくれるし、その渋っている理由を教えてくれたことはなかったのに。
もしかして、まだ流れ続けてるさっちゃんの曲の影響…?
それとも、薬のこと知ってると言ったから?
「そんなに独占欲、強かったっけ?」
聞けば、頬を撫でてきて、そのままそこにキスしてくる。唾液で濡れて柔らかい唇に、ずくりと疼くものを感じた。
「んぁ……こんな、挨拶の、キスでも殴りたくなる」
唯ちゃんへのそれと、挨拶のキスは全然、全然違うのに。
小さく笑みがこぼれる。
「唯ちゃん、子どもになったんじゃない?」
「煩い……お前が……好き過ぎて、くるしい」
背中に腕を回して肩に顔を埋めてくる唯ちゃんの声が掠れていて、大好きだと訴えてくるから、僕も苦しいよ、とその言葉を飲み込んで、ぎゅうと抱きしめる。
遠征先に一緒に来てくれないことも、僕の赤ちゃんを欲しがってくれないこともそうだけれど、さっちゃんが抱いていた愛を受け取って、更に大きくなった唯ちゃんへの愛が、年を追うごとにまだ大きくなって唯ちゃんを壊してしまいそうでたまらない。
でも、今はまだ唯ちゃんの温もりに触れて安心したい、ただ、ただ安心させたい。
僕も大好きだよと、そこに想いを乗せて。
「……じゃあ、その気持ち、赤ちゃんに分けてあげたら、ゆっくり息できるかもしれないよ?」
「まだ諦めてねえのか!」
もがくように胸を押し返してくるけど、離してあげない。
夫婦が別れる理由なんて様々で、絶対にそんなことないと思っていても、子どものためという理由で防げるかもしれない。結婚式を挙げないのだって、その可能性が上がるのならしなくたって構わない。
僕も、もう待てそうにないんだ。
「諦めません。ねえ、ゆっくり…息、しよう?僕はどこにも行かないし、きっと楽しくてあっという間に2人の時間が取れるようになるよ」
「…おばちゃんになっちゃうじゃん」
「そうしたら、僕だっておじさんでしょう?」
それに、僕の方が一足先におじいちゃんになっちゃうから。
たぶんそう言ったら、悲しむんだろうから言わないけれど。
「…………それは、悪く、ねえかもな」
「ふふっ、赤ちゃん作ってくれる気になった?」
少しだけ離れて顔を覗き込めば、染まっている頬を隠すように顔を背けてしまう。
つんと尖った唇からは期待外れの言葉。
「それとこれとは違う!」
「僕の演奏でその気にさせてみせるよ」と囁けば、更に頬を赤くして「……久しぶりなんだから、それぐらいの、期待してる」と、もしかしたら、落ちてくれたのかなと、胸がふくらんだ。

演奏会を色んなところで開く那月は顔が利くとはいっても、コンサートホールなんて1年先まで予定で埋まっていることが多いのに、相当前から計画していたのか大きな会場に招待された。
一面の赤い座席の前列中央にぽつんと座っているのは私だけで、それを希望したのは私でも、妙に落ち着かない。
仮にも子どもが欲しいと言ってるやつが、無駄遣いするなという話だ。
少しだけ余所行きの格好をするつもりが、胸の開いた白に近い薄いピンクのフォーマルドレスなんて着せられて、髪はハーフアップに結っている。昔、那月に貰ったアクセサリーをいくつか身に着けて。

結婚5周年は木婚式と呼ばれるらしい。
形式的なことはよく分からないけれど、調べてみると「木」という漢字がついているだけあって、木製家具や観葉植物などがいいと書かれてあった。
ふうん、と思いながら選んだのは、木とは全く関係ない腕時計。
今までは夫婦茶碗やネクタイ、メガネなんかの定番のものをプレゼントしていて、その中でも定番中の定番であるこれはまだだったから。
あぁ、でも、演奏するときは外してしまうかもなぁ…。

浮気したのかどうかを聞くことはしなかった。
今日までの1週間ほどで、那月が溶けるほど愛してくれたから。
いつから私がピルを飲んでるのを知っていたのか知らないけど、例え知ってても私を求めてくれてた事実がそこにあって、那月とセックスするのも中に出されるのも、赤ちゃんが関係なかったとしたら、那月との大事な時間と言えた私からすれば、あの日からのセックスは全然違ったものになってしまったんだ。

照明が落ちて、舞台が照らされて。
その僅かなスタッフさえも嫌だと思うのに、4年ぶりの舞台での生演奏に私の心臓が持つのかとそればかりを気にしていると、中央に現れた那月は優しく微笑んだ。

一声もなく始まるヴァイオリンの演奏。
口で説明する必要はない、ここに全部込められているのだから、そう言ってるような音色。
風が吹き抜けてきたみたいに、髪が舞い上がったような気がしてそれを押さえた。

裏で流れるヴィオラの音は録音された那月のものだ。

曲はたぶん『砂月』

那月は砂月のことをあまり良いようには考えてなくて、砂月はそれを自覚していた。
だから、私が那月のメガネを外して砂月を呼ぶと、那月に見えないようにしてくれていたんだ。
「那月は赤ちゃんのことばっかり考えてて嫌だ」
「……この状況で俺を呼んで、どうしようってんだよ」
私は那月とセックスをしているときに、わざとメガネを外したことがある。
「砂月が、して…」
震える声で、勝手に零れた涙を砂月が舐め取って、酷く優しい声音で、拒絶した。
「…いくら、お前を愛してても、出来ないことはある」
純粋に、私だけを見て欲しいと思っての行動を責めることなく続けた。
「大丈夫だ。那月は、お前のことだけを考えてる」
俺は那月を裏切れない、と。
「さっちゃんと、何話したの?」
メガネをかけて表に出てきた那月の声は冷たいもので、私は咄嗟に嘘を吐いた。
「……メガネ、ずれたのが落ちただけ」
那月は何も言わなかったし、その話はそれっきり。

この前だって、私を試すように「さっちゃんがいいんでしょう?」なんて、そんなことを言われたし、砂月と1つになってからもよくあることだったから、そんな那月がこの曲を弾くとは思わなかった。
私のために作られたものではないけれど、先に発表された曲とは全く違っていて、なんとなくそうなんだろうな、とかろうじて分かるぐらい。

演奏から伝わってくる溢れんばかりの那月の愛は、那月との子に注ぐことになるだろう愛さえも惜しいくらい、那月だけを愛せば天秤に掛けてもつり合ってくれる、受け止めてやれる。砂月のことも好きになってごめんって、私のバカな頭が考え出したこと。
そして、それを頑なに守ろうとしていたんだ。

でも、いくら私が愛したって、お前の想いに届く気がしないよ。

照明が落ちて陰りを見せる観客席は例え全てが埋まっていても、唯ちゃんが居るところにだけスポットライトを当てているかのように色を映す。
きらきらと、空間が縮まるような幻想の中で演奏するのはとても心が和やかで、また楽しい。
いつまでもそんな気持ちのままで居られたらいいのに。
そう思いながら、一瞬にも思える演奏を終えて、舞台を飛び降りれば、俯いてしまう愛しい人。
隣の座席にヴァイオリンを置いて、顔を覗き込むようにしゃがんで見上げれば、頭を抱きこむようにして抱きしめてくる。
ふんわりと香る唯ちゃんの甘い匂いを吸い込んだ。
「僕の愛、届いた?」
「………心臓が、痛いぐらいだ」
その言葉通り、早い鼓動の音が直に触れた体から耳に伝わってきて、笑みがこぼれる。
「笑うとこじゃねえよ…苦しいんだからな…!」
ばっと体を離した唯ちゃんが僕の右手を取って、大粒の涙がぽたぽたと手の甲に落ちてくる。
「これ、さえも…」
右手に嵌めた結婚指輪を抜いて、左手の薬指へ。
泣かないでと、口付けると返すように頬に手を添えてくる。
「んっ……ふ…ぁ」
唯ちゃんがまだお仕事をしていた頃は、唯ちゃんが「仕方ないだろ」ってなだめてくるところ。
夫婦って似てくるって聞くけれど、僕に似ちゃったのかな。

混ざり合った唾液を飲み込めば、唇が離れていく。
まだ子どもを欲しいとは思えないけど、私は最初、お前の演奏に惚れたんだよ。だから。
「……少しずつ、遠征先についていこうかな、って」
「あとで行かないって言ってもダメだからね」
「少しずつ、だって」
「だめ、全部、全部一緒に行こう」
「……だから、慣らすのも必要――」
胸を押さえる手を取られたかと思うと、那月は舌なめずりして目を細めた。
「荒療治、しようか」
那月に強気に出られると怯んでしまう私の鼓動がもっと早く脈打って落ち着かない。
そんな私をよそに、那月は座席を後ろに倒して、サイドの肘置きを上げると覆いかぶさってくる。
「なつ、スタッフとか…」
「居ないよ。人払い、してるから。んっ…」
那月が座席に片膝を置いて、2人分の体重が掛かった座席がぎしぎしと音を立て、背凭れの上部に頭が乗る形でキスされてしまうと身動きが取れない。重ねられた舌で歯列をなぞられるだけでも力が抜けてくるのに、力が強い那月を押し返す術もなく、翻弄されるだけだった。
「……ぁ……ん…」
到底キスだけで済むと思えない深い口付けに抵抗しようと胸を押し返せば、重ねて握られる手に、少しだけ納まっていた涙腺がすぐに水分を滲ませた。薄っすらと覗かせる那月の翡翠色の瞳に体がぞくぞくする。
裾からドレスの中に手が滑り込んできて、目を見開いた。
「…んんっ……やぁ!だめ、那月っ!昨日もしただろ…!」
なんとか唇を離して那月を睨みつける。
「かわいい…」
家でするときは抵抗するのを諦めてても、そんな姿をこんなところでまで晒すわけにはいかない。
「ぁ、やんっ……待っ……家なら、いいからぁ…那月、やだ…」
「それだと、いつもと一緒でしょう?」
ショーツの上から大事なところを撫でてくる手を掴んで剥がそうとしても、片手ではびくともしなくて、体を前に倒されたかと思うと、背中のファスナーを下ろしてくる。
「ばか、怒るぞ!」
叫べば、声が反響してきてびくつくと、那月がくす、と笑う。
「僕以外の人に恥ずかしいとこ、見られたいんだ?」
否定以外を許さないような、そんな顔をするから、ドレスが捲れてしまわないように胸を押さえて、今度は小さく訴えてみるけれど、変わらず触れてくる手に身を震わせた。
「ん……ぁ…そんなわけ、な………やめっ」
「そこまで嫌がられると傷ついちゃうなぁ…」
棒読みで言いながら、腕を退けられてドレスが捲れると、那月が僅かに目を見開いたあと微笑んだ。
「僕がプレゼントしたの、だよね?」
「あっ、やっ!見んな!」
胸元の開いたドレスだったから、仕方なくハーフカップブラのストラップを外してつけてて。
「ふふっ、唯ちゃんの場合は外した方が恥ずかしくないんじゃない?」
「それもそうだなってなるか、ばか!」
また声が微妙に響いてしまって、慌てて口元を押さえると、小さく笑った那月は「そのまま、声抑えてて」と完全にスイッチが入ってしまったらしく、首筋に顔を埋めて空いた手で胸に触れてくる。
ブラがずれて擦れた突起に指が絡まってきて、ショーツの上から撫でるだけだった指が直接に触れようと中に入ってきた。
すでにくちくちと音を立て始めているそこを指で擦り上げられると気持ちよすぎて、喉の奥から小さな声が漏れていく。
「んんっ…なつ……ぁ……も、やっ!!」
ちゅっちゅと耳の後ろに吸い付かれて、震えてしまう体で押し返しても那月はちっとも動じない。
早い心臓が煩いのに、那月が触れてくるから更にそれを早めて息が上がってくる。
下の恥ずかしいところや胸の先端からもびりびりとした快楽が走って、勝手に反応する足からヒールが落ちてしまう。
「でも、唯ちゃんのここ、もう入れても、痛くないよね」
「ひぁっ…ゆび、らめらって…んんぅ」
ぬる、と中に入ってくる那月の指に顔を仰け反らせて、口元を手で押さえてはいても抗議の声と共に漏れる声であまり意味がないようだった。
那月の指は長くて奥まで入ってくるから、その更に奥が疼いてきてたまらなく挿れて欲しくなって、くちゅくちゅと響く音に熱い体が頭が思考を麻痺させていく。
「そう言われも、指に吸い付いてくるのは唯ちゃんの方だし…えっち大好きになったの?」
この1週間のことを思い出して顔がこれ以上ないくらい熱くなってしまう。
「ふぁ、…ん………那月が、好き……ぁっ、…ぁぁ!」
くす、と笑った那月に胸の先端を口に含められて、高い声が飛び出した。
「んぅ……唯ちゃんの小さくてかわいいおっぱいにもいっぱいキス、してあげるね…」
舌で転がされながら話されると、そこに熱い吐息が当たって体が跳ねてしまう。
「ぁ、いち、いち言うなっ……ぁん、やめっ、ぁあ……ぁあんっ…!」
ちゅうちゅうと吸い上げながら、下から包むように優しく揉みあげてきて、変わらずその更に下からぐちゅぐちゅと音が響いてくる。
「…ここから甘いの、飲みたいなぁ……はぁ…ん、ふ…」
いつものように暗に赤ちゃんを産んでと告げながら、一層吸い付いてくる。
「ばかぁ……ぁっ……ふぁ、なつ、なつきっ…!」
「ちゅ……ん、はぁ…最後までやる、つもりなかったけど、最後かも――ううん、僕が我慢できないだけ…ごめんね…」
指を引き抜かれたかと思うと、濡れた指を舐める那月が目を細めて挑発するような顔をしていて、本当に最後までやるつもりなかったのかと疑うことしかできなかった。
唾液で濡れる胸が空気に触れてひんやりして身震いした。
「唯ちゃんはどっちがいい?」
どっち、とは上か下の口のことで。子どもを欲しがっている那月は中以外ありえなかったのに、こうして聞いてくるようになった。
前に「お薬、やめない悪い子にはどっちがいいか、教えてくれないと朝まで離してあげないよ?」なんて、楽しそうに言われて。それでも、優しく抱いてくれるのは変わらないのがまた愛しかった。

カチャカチャとベルトを外していく那月に、もう、やるならやるで、早く終わらせてしまった方がいいんじゃないのかと、悪魔が囁いた。
「ぁ、ぁう…し、したの……がいい…」
小さく言った言葉を那月は聞き漏らすことなく、目の色を変えた。
「下の?どこ?ちゃんと教えて?」
耳元で意地悪く言った那月がそのままそこにちゅっとリップ音を落としてくるから、血が上ってきて頭がくらくらする。
「…ぅう…したの、なつき…」
涙目で那月を見上げれば、くす、と笑った那月が「今日はそれで許してあげる」とふんわりと可愛らしく微笑んだ。
そして、下着から取り出された、いきりたつものに奥が疼いて息を呑む。
体を抱え上げられて座席に腰を下ろすと、向かい合わせにして膝に乗せられた。
「ドレス、捲って?」
先にショーツを下ろして、言われるまま裾を捲れば、腰を抱き寄せられて「ご褒美」とキスがやってくる。
「ぁ、ん……ふぁ……んんぅ…」
上手く返せなくて口を開けたまま、されるがままに舌を絡めあう。
ぴちゃぴちゃと音を立ててキスしながら、くりくりとこねるように胸の先端を弄られて、休む間もなく続く快楽で疼いてくる体が辛い。
お腹の辺りに当たる那月のものに擦り付けるように腰を揺らして、早くとせがめば、那月の瞳が微笑んだ。
「はぁ……ここでするの、興奮してるんだ?」
カァと赤くなる顔を隠すように那月に抱きつけば、お尻を優しく揉んできてくすぐったい。
「……ん、ちが…誰か、来る前に…」
「ねえ、唯ちゃん、今日、何の日か知ってる?」
いきなり那月が冷めた声を出すから肩がびくついた。
「…結婚5周年…?」
「そう、僕、5年…待ったんだよ?褒めて欲しいなぁ」
言いながら、中にずぶりと全部を飲み込んで、勢いよく体を上下に揺すってくる。
「やぁあっ、ぁん、ぁ、……なつ、…あっ、ぁあっ、……はげしっ…んんぁ…っ!!」
奥の気持ちいいところまで遠慮なく突いてきて、じゅぷじゅぷと響く音に体ががくがくする。
「…真美、ちゃんのお産までは、って我慢する…つもりだったんだ。…でも、でもね、もう、待てない…」
何を、なんて思いつくのは赤ちゃんのことしかなくて。
那月が言ったように、那月を好きな気持ちを赤ちゃんに分けてあげればいい、というのは私にとって、道が開けたようなそんな想いを抱いたのは間違いなかった。
でも、那月が5年待ったというのなら、私だって5年もの間、赤ちゃんにばかり興味を示す那月に堪えてきたんだ。

「ぁぁっ、はぁ……ぁん、ぁん、……やぁ、なつ、ゆっくり……ひぁっ…!」
那月の顔を見ても涙で霞んでよく見えなくて、笑っているような泣きそうな、困ったような、そのどれもが当てはまっているように見えた。
ごりごりと奥に当たるだけで、びくんと反応する体やホールに響く自分の高い声に羞恥心を掻きたてられ、繋がっている箇所から、体を掴んでくる手、那月の視線に頭が沸騰するように熱が溢れてくる。
「ひぅ、ん、ぁあぁ……はっ、あぁっ…ぁ、ぁっ……やん、やっ…!」
涎が顎を伝ってくるのが分かって、それだけでもぞくりと震えた。
「初め、は…唯ちゃんが欲しくって、離れていかない理由が欲しくて」
「んぁ、ぁ……はなれ、るわけ、な……らめ、も、っ……あぁあんっ!!」
目一杯背筋を反らして、後ろに落ちそうになる体を那月に支えられながら達しても、速度が落ちただけでぐりぐりと奥まで挿ってくるのは変わらなくて、敏感な体がびくびくと痙攣する。
「ぁ、ぁっ、……、なつっ…!」
「ふふっ、唯ちゃんの中、きゅうきゅうして…僕も、イッちゃいそう…」
卑猥な音だけじゃなく、那月と自分の荒い息が煽ってきて、熱が収まらない。
「なつっ……ぁん、ひゃ……ぁあぁ……っ!!」
「ぁぁ…持ってかれそう……出しちゃうね…」
「待っ…んぁぁっ!!」
最奥まで突き上げられた直後、くぐもった声と共にどぷん、と中に吐き出される那月の熱に体がぶるぶると震える。温かいそれに奥が疼いて、飲み込むようにきゅうきゅうと鳴るのが恥ずかしい。
どくどくと送り出される熱に息も絶え絶えで那月の首に腕を回して抱きしめた。
「……ふぁ、ん……は、那月、なつき…」
「はぁ……ぁ、…唯ちゃん…僕の赤ちゃん、産んでください……お願い…」
あやすように背中を摩ってくる那月の首筋に鼻先を摺り寄せて、小さく首を横に振る。
「………そんな、すぐは……むり…」
力なく呟けば、体を引き剥がされて、喉に突き立てられる長い指。
「そっか、僕の演奏じゃ、ダメだったんだね…」
指が絡まって、やんわりと締め付けられる喉。

何、泣いてんだよ、って私が無理って言ったからか。
そんなに欲しいって、どんだけ子ども好きなんだ?
まぁ、私も好きだから、きっと那月の子はそれはもうすっげえ可愛いんだろうなぁって思うけどな。
「なつき…」
名前を呼べば、それを合図にするように力が込められてくる。
いつもバカ力なのに、そんなゆっくりしたら――。

苦しさの中、ふと思い出したのが5年前の7月のことだった。
特別な日でもないのに那月に北海道旅行に誘われたんだ。
辺りに点々としかない民家の明かりが遠く、真っ暗闇の空には満面の星。
小さい頃から納屋の屋根に上ってその星空を眺めたと嬉しそうにいう那月と同じ画を見たくて、一緒にそこに上って空を見上げた。
7月は夜でも東京はそれなりに暑いのに、北海道では秋並みの涼しさ、寒さを見せ、震える肩を抱き寄せてくる那月に顔を赤くして。
家で2人で寄り添っているよりも妙に近い気がする鼓動の音。
気を紛らわすために地上よりもほんの少しだけ近くなった星々に手を伸ばせば、小さくて可愛いとその手を取られて。手が小さいだけで、ちょっとだけヴァイオリン不利なんだからな!なんて、言いかけて慌てて、お前がでかいだけだと、その大きくて温かい手を握り返した。
「唯ちゃん、今、幸せですか?」
「ん……んーそうだな」
「唯ちゃんはいつも曖昧な返事ばっかりです」
「…そんなことねーよ」
傍に居るだけでどきどきするのに、言葉にするのは難しかった。
「これプレゼントしたら、言い切れるほど幸せって思ってくれるといいなぁ」
「…?プレゼントなら貰っただろ?」
那月の実家に来る前に色々なところを連れて行ってもらった。
でも、那月が育ったこの牧場が一番楽しかったと思う。
納屋の柱にある、那月の身長を印した傷にはウサギや豚なんかの身長も印してあって、小学生で今の私の身長を越してるなんて、実家の牛乳のおかげなのか…と、唸っていたら、那月が小さくて可愛い方がいいですよ、といつも通りに言ってきて、扉の入り口にぶつかると、たんこぶさんが出来ることもありますからと、流石にそこまでほしいとは思ってないって笑った。
那月の両親も身長高いし、遺伝も影響してる気はする。
新鮮な牛乳やチーズ、ヨーグルトにハムも格別だった。
流石にハムを食べた後に、動物たちに囲まれて演奏されるとちょっと気分悪くなったけど、那月の演奏を聴いているうちに動物たちも楽しそうで、最後はただみんなで音楽を楽しんだ。

ポケットから何かを取り出した那月は何も言わなくて、現実味が沸かないまま、私は左手の薬指に嵌められるそれをぼうっと眺めていた。
「僕のお嫁さんになってください」
「は、嵌めてから言うなよ!」
我に返ってそう言えば、那月は普段と変わらぬ調子で、あ、僕も嵌めないとですね〜と自分で嵌めようとするから、それを奪い取って、本気なのか、冗談なのか分からないまま、私は那月の指にそれを嵌めたんだ。

「ごめん、ね…」
謝るぐらいならそんなことすんなよ。
でも、抱きしめられて死にそうな思いするのとは違って、冗談でこんな直接的なことするやつじゃ、ないよな。

私は浮気されたんじゃないか、ってそれだけで子ども関連の本を衝動に任せて捨てた。
その衝動とよく似ている気がする。
独占欲、所有欲、支配欲。
全部、自分のものでいて欲しいってこと。
私とは形は違っても、きっと那月にとっては赤ちゃんもそれに含まれるんだろう。

「愛、してるから、」

うん。那月、幸せだよと、唇だけで囁いて。

あの状況で微笑む唯ちゃんはずるい。
緩む手に大きく息を吐いて、弱々しく僕の手に触れてくる薬指に嵌められた結婚指輪が光って見えた。
咳き込む唯ちゃんを抱きしめれば、優しく頭を撫でてくる。
「ん、…はぁ……那月、私と一緒に死んでくれる?」
「いいよ…」
即答すれば、唯ちゃんが盛大なため息を付いてしまう。
1人残されたって、死んでるのと一緒だから、唯ちゃんがそれを望むなら迷いなんてない。
「…赤ちゃんは、まだ、無理だけど、さ……これでも、やっと前進できたと思ってて…だから、もうちょっと私と生きて?」
一緒に遠征先に来てくれるって言ったこと?
「それって、どれぐらい…?」
「んー……2、3年?」
「長いよぉ…」
「……私だけ、見て欲しい」
「いつも唯ちゃんだけ、見てるよ」
「…それ、最近、気づいた」
相手を傷つけないための隠し事は結局、回りまわって傷つけてしまうことになるんだと、今になって胸に突き刺さる。
子どもじゃないよ、なんて言っておきながら、臆病なままで大人にはなれていなかったみたい。
いつか、ちゃんとした大人になれるように、いい父親になれるように、今はまだもう少しだけ許して欲しい。
「………唯ちゃんが遠征先に全部来てくれたら頑張ります」
「……ついて行った先のホテルに引き篭もるところからでいい?」
「ずっとそれじゃダメだからね」
「うん………なぁ、那月、式…挙げようか」
くす、と笑って、体を離して唯ちゃんと額をくっつけた。
「離婚、しないよ?」
「するわけない…」
「じゃあ、もう一度、新婚さんから始めよう」
唯ちゃんが頬を染めてはにかむから、大好きだよと、強く抱きしめた。

さっちゃんはこの意味でも、僕のストッパーになってくれてたんだと改めて思い知った数年だった。
僕の中で、何度も「唯はお前が好きなんだよ」と慰めて、諭してくれて。
そして、さっちゃんが唯ちゃんへ向ける大きな愛を受け取って、ますます唯ちゃんが僕を愛してくれているうちに自分の手でと、その欲求が膨らんでいった。
だから、僕は赤ちゃんという絆で、その衝動を抑えたかったんだ。

唯ちゃんが変わろうとしてくれているのだから、その日まで頑張ってみせるよ。
でも、保障は出来ないから、今度から、早く赤ちゃん産んでくれますようにと、演奏に込めてみようかな。

3度目の誓いの口付けをあなたに――。

fin.



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最初は子作りしましょ♪って題名の緩くて幸せな話を考えてたのに、たまには真面目な話を書かなければいけない気がした結果がこれです。
那翔ちゃんは相も変わらず依存がテーマなので、真面目な話を書こうとするとこういった方向になりがちです。
リピdebutどころか、music&debut連動特典で泣いてしまう私に良く書けたな、と思いますが、那翔ちゃん的には想像しやすい形でした。
でも、那翔も砂翔も砂那も大好きだから、ぐわんぐわんしました。
執筆2012/09/18〜30

――4年半後。

「あら、あら、双子さんのようですよ〜」
エコーをしながら告げられた言葉に衝撃を受けている私の横で那月がとても嬉しそうに微笑んだ。
無邪気にも思える笑顔にほだされるように、一粒の涙が零れ落ちて、那月が一言「ありがとう」と頬にキスしてくれた。