空港まで見送りに行くと家までの帰り道が不安だからと送らずに、玄関先で熱いキスと一緒に海外にも繋がる携帯電話をプレゼントされた。砂月は那月にもキスをしてから二言三言話して、振り返りもせずに行ってしまった。
それから…砂月がグアムに行ってから5日が経過した。
わざわざ携帯電話をプレゼントしてくるぐらいだから、電話が掛かってくるのかと思えば、無事に向こうに着いたという報告をされただけだった。俺からも何度か掛けようと思ったけど、仕事の邪魔になっても嫌だし、グアムの写真が添付されたメールはたまに届いていたから、それに返信する程度だ。メールの文章はほとんどなくてあっても短いし、写真はほとんど本人が写っていない。
って、砂月が自撮りしててもそれはそれで驚くけど。
「ヅラめんどくせぇ…」
腰まであるストレートのウィッグをつけて、洗濯籠を持ち上げる。
階段を上がっているときに、上からがたんという音が聞こえてくる。
「…え、ええ…」
上には誰も居ないはずだから一瞬固まってしまう。
恐る恐る階段から顔を出せば、勝手に開いてしまったベランダの戸から黒猫が廊下に入ってきていた。
「な、なんだ…ビビらせんなよな…」
古い建物だからベランダの鍵は俺にはかなり硬くて、那月に言ったら「今度から僕が干しに来ますから言ってくださいね〜」と言いながら、戸の鍵を1発で壊してしまった。砂月にそれを伝えたら「俺が帰るまで放っとけ」とメールが来た。
引き戸じゃないから風で開いてしまうことはあるけど…。
階段を上がりきると、黒猫は飼い猫なのか首輪の鈴を鳴らしながら廊下の奥まで行ってしまう。
「あ〜あ〜そっち汚ねえからこっち来いって」
声をかければ黒猫は扉をがりがりと引っかいて、扉が開いていたのか中に入っていってしまう。
「砂月に怒られるかもな…」
地下もそうだけど、2階はベランダ以外に近づくなと言われている。
ベランダに出て、洗濯籠を置いてから扉の方に近づく。
「あれ…足跡…?」
今まで気づかなかったけど、廊下の奥の方へ行くと白い埃にスリッパの跡がついていた。
もしかして、最近那月が来たのか…?
那月にも近づくな、って言ってたはずなのに。
とにかく、黒猫を連れ出そうとドアノブを握れば、鍵が壊れていて壁が少しだけぼろついていた。
泥棒…?まさか…な…。
首を傾げながら扉を押し開けば、部屋の中は正面と右にある大きな窓から入る夕日で明るく、物置のようで背の高いタンスや棚が戸口を囲うように並んでいた。
隅で丸まっている黒猫にじりじりと近づいて、一気に体を抱き上げれば、腕を僅かに引っかかれてしまう。
「よっしゃ確保!こんなとこ入るから白猫になってんじゃねえか。…ん?何だこれ…」
黒猫が居た辺りに写真のようなものが落ちているのを見つけて拾い上げた。
窓に近づいてそれを見てみると、舞台の上でヴァイオリンを演奏している…俺だった。
「…?何でこんなもんあんだ…?つーか、この写真の俺でかくね?」
舞台の上だったらコンクールか何かのはずなのに、ヴァイオリンは小学校低学年でやめたから、写真に写ってる俺の身長がおかしい。
この写真だとたぶん、150cmぐらいある…。
「那月が帰ってきたら聞くか…」
白くなった黒猫を抱えているせいで俺まで埃まみれだから、先に風呂に入ろうと洗濯籠をそのままにして階段を下りていく。
この猫も洗ってやりたいけど、また引っかかれたら嫌だからと玄関から外に逃がしてやる。
「もう登るんじゃねえぞ〜」
言いながら手を振ればやっと「にゃあん」と鳴いて、去っていった。
引っかかれた傷を見れば、一筋の線が僅かに盛り上がっていて、途切れ途切れに血が滲んでいるようだった。
「あー風呂入ったら沁みそ…」
風呂から上がって服を着終わると、がたんと音がして頭を拭きながら廊下に顔を出せば、那月が帰ってきた音だった。
「おかえりー!お前さー最近2階の部屋入った?」
聞いた直後、那月が肩をびくつかせて固まってしまう。
「どうした…?」
那月のところまで行って顔を覗き込めば、優しく抱きしめられた。
「翔…ちゃんだよね…?」
「…?そうだけど…」
「…翔ちゃん…王子…?」
確かめるように、たどたどしく言われた王子という言葉の響きが懐かしく感じる。
Vo.2のケンカの王子様を読みながら、そんなことしてたなぁと思い出しはしたけど、ここ最近呼ばれることもなかったから。
「なんかもう、それ久しぶり過ぎて、頭から飛んでたな〜」
あとから砂月に聞いて気になったのはこの世界ではドラマではなく、アニメがやっていたということだ。
何気に砂月もケンカの王子様に詳しくて、話し相手になってもらったことがある。でも、興味は薄そうで、あんまり那月の前で話題にしてほしくなさそうではあった。
那月の力が強くなってきて、押し返しながら叫ぶように言う。
「いででで…!抱きしめるのは別にいいけど、力入れんなって!」
「ごめんなさ…」
あっさりと離れていった那月はしゅんとしていて元気がなかった。
「…学校でなんかあったか?」
「う、ううん。ちょっと混乱してるだけだから…僕、アトリエ行くね…」
首を横に振って逃げるように那月は地下の階段を下りていった。
話聞いてやりたいけど、無理に聞き出すのもなぁ…。
先に夕飯作ってやるか、と頭を乾かしに洗面所へと戻った。
ドライヤーで頭を乾かしていると2階で見つけた写真が目に入る。
「聞ける雰囲気じゃねえけど…」
写真を拭いてパーカーのポケットにしのばせる。
夕飯のメニューを考えながらさっさと乾かして、キッチンへと行く。
冷蔵庫の中身は砂月がグアムに行く前に買い込んでくれたから、しばらく買出しに行く必要はない程度には食材がある。だけど、俺は砂月ほどレパートリーがあるわけでもないから、色々あっても何を作ればいいのか分からないことが多い。
それに相変わらず食欲は湧かなくて、食材はそんなに減っていなかった。
「うーん、クリームシチューかな〜」
にんじんとじゃがいも、鶏肉、ブロッコリーに玉ねぎ、白菜…ってこんなもんでいいか。
あとはサラダとパンで、鮭もあればよかったけど痛むとダメだからと魚はあまり買っていなかった。
さくっと用意を済ませて那月を呼ぼうと携帯電話を手に取る。
地下に近づくな、と言われているから基本的に砂月が呼びに行くか、メールか電話で呼び出すかのどちらかだ。
そうして、呼び出してから数十分経っても那月はダイニングに来なくて、まだ器に盛ってないから待つことはできるけど、帰ってきたときの那月の様子が気になって席を立った。
とりあえず、地下への階段の入り口で那月に声を掛けてみる。
「那月〜?飯できたぞー?」
声が小さかったのか、うんともすんとも返ってこない。
「なーつーきー?」
再び呼んでも返事がないから、電話を掛けてみるけど繋がらなかった。
地下だから電波の届くところが限られているのかもしれない。
単純にアトリエで寝てしまったのか、それとも1人になりたいのか…。
砂月に那月を任されてるのもあるし、元気がなかったのが気になって電気をつけて段差の高い階段を下りていく。
下りきると、僅かな空間に扉が3つもあって、1つの小さな小窓から光が漏れていて、那月の話し声が聞こえてきた。
あぁ、電話してたのか…と納得しながらノックする。
「那月〜?飯出来てるから、電話終わったら来いよ〜」
「あ、翔ちゃん。ごめーん、すぐ行くね」
「急がなくてもいいぞー…つっても1時間以上は勘弁な」
「はぁい」
思ったよりも明るい声だったから、ほっとして階段を上っていく。
ダイニングに戻ろうとしたとき、洗濯物のことをすっかり忘れていたことを思い出して、慌ててベランダに向かった。
携帯電話を再び耳に当てると聞こえてきたのは弱々しい声だった。
「ねぇ、那月…今、翔って言わなかった?」
電話の相手が音也くんなのに、僕はうっかり翔ちゃんって言ってしまったから。
さっちゃんがグアムに行ってしまった翌日、僕は翔ちゃんにベランダの鍵のことを言われて2階へ上がった。
2階に上ったとき、僕は違和感を覚えた。
小さい頃からずっと住んでいるはずのこの家の2階の記憶がほとんどなかったからだ。
存在は知っていても、さっちゃんに近づくなと言われてから行ったのは何年かぶりだった。
廊下を見ても、ベランダを見ても断片的なもやのかかっている記憶だけで、ちゃんとした思い出のようなものは何もなくて、少しだけ頭が痛くなった。
それから僕は今作っている人形の頭部がもうすぐ出来上がりそうだったから、このことをしばらく忘れていた。
そして、完成した昨日の夜、ふと気になって懐中電灯を持って2階へ行った。
もう1度廊下を見て、心がざわついた。怖くて逃げたかったけど、奥にある扉のドアノブを握った。でも、鍵が掛かっていて僕は無理やりこじ開けた。
最初は何もない部屋だと思った。
窓が2箇所にあって、タンスと棚が並んでいて、中にはほとんど人形に着せるための着物の生地が入っているだけだった。焦っていた僕は勢いよく一番下の引き出しを引き抜いてしまった。
そして、引き出しの下にあったのはたくさんの、たくさんの、さっきまで僕が作っていた人形に似ている子が写った写真。
一枚一枚懐中電灯を当てていけば、それにまつわる思い出がいくつも頭の中に光り輝いた。でも、名前はまだ思い出せない。
小さい頃の写真まであって、それはさっちゃんが買ったもの。
誰から買ったんだっけ…?この子は誰…?
そう思ったとき、コンクールの賞状を持っている写真を見つけた。名前が潰れて読みづらい。それのもっとアップの写真を、と探してみると、さっちゃんがその子の頭を撫でている写真があった。
「名前は…来栖、翔…翔ちゃん…?」
呟いてから慌てて、ほかの写真も見ていると、ある写真を見つけた。
お葬式の様子の写真。
さっちゃんに寄り添った僕は涙も流さずただそこに居るだけで、誰のお葬式であるのかさえ認識していないように感じた。
そのとき、僕は翔ちゃんのことを、翔ちゃんが好きだったことを思い出したんだ。
「――き、なーつきー?黙られると余計怖いんだけど!おーい」
「ごめんなさい…なんでしたっけ?」
「翔って言わなかった?って。俺、ちょっと前に那月ん家のベランダで翔に似たやつ見てさー幽霊かもって」
「あ、あぁ…僕たち唯ちゃんと一緒に暮らしてて、昨日翔ちゃんを思い出したから…よく似てるなぁって…翔ちゃんが生き返ったみたいでたまに間違えちゃうんです」
「へえ、そう言われたら、あの子って翔に似てるかも。う〜ん、ほんとに砂月って好み狭いんだね〜合コン誘っても、どうせ好みのやつなんか居ないって乗り気じゃないしさ」
コンクールで翔ちゃんを見つけた瞬間のさっちゃんの目の輝きを今は鮮明に思い出せる。
僕はそのとき少しだけむっとして、慌ててその視線の先を見た。でも、僕も一目で好きになった。
その日のうちに告白して、徐々に仲良くなって付き合うようになって、さっちゃんと相談して最初は3人でセックスをした。そして、そのとき僕は違和感を覚えた。あまり、楽しくない…というか欲情しない自分が居て、僕はさっちゃんばかりを見てなんとか乗り切った。さっちゃんは薄々、気づいていたのか3人でするのを減らしてくれて、その分、僕を抱いてくれた。
さっちゃんは僕と翔ちゃんを相手にすることになるわけだから、思春期真っ只中の翔ちゃんは物足りないのか、僕とも2人でしたいと誘われることがあった。でも、出来なかったらと思うと断ることしか出来なかった。
3人でやるときもずっとお尻に挿れることはしなかったし、さっちゃんも翔ちゃんに挿れたいと思わないと言ってくれていた。でも、翔ちゃんからさっちゃんに挿れてもらったという話を聞いて、今までそれは僕だけのものだったからショックを受けた。あとから「じゃあ、僕もいいよね?」って翔ちゃんを誘って、ほとんどが嫉妬にまみれたセックスだったのを思い出せる。だけど、それをきっかけに、僕は翔ちゃんとも出来るようになっていることに気づいた。
さっちゃんが好きで、翔ちゃんも好きで、でもさっちゃん寄りだと思っていた僕の心に翔ちゃんの死は重かった。死んでしまったと思った瞬間、僕は翔ちゃんが大事で、さっちゃんより先に出来なかったことに嫉妬したんだと気づいた。だから、僕は翔ちゃんと2人でもセックス出来るようになったんだと知った。
それからもうただ必死でヴァイオリンを触らないようにしたり、励ましの言葉を聞かないようにしたりして、翔ちゃんのことを忘れようとした。
ぽかんと空いていった穴を埋めるようにさっちゃんが優しくしてくれて、構ってくれて、翔ちゃんが好きだった気持ちが全部さっちゃんに傾いた。それが今の僕だ。
そして、記憶を完全に封じ込めたとき、さっちゃんの荒れように気づいた。両親が北海道に行ってしまって結構経った時期でもあったし、僕がヴァイオリンを持てなくなって負担をかけたせいだと思って、必死に落ち着かせようと僕はヴィオラに転向する決意をしたんだ。
「さっちゃんは音也くんと違って誠実だから浮気なんてことしないよぉ」
「酷っ!ていうか、浮気って砂月はフリーだったじゃん。今も片思いだったらフリーってことになるのかもしれないけど」
「えー?さっちゃんは僕のだもん…」
「そういや、2人はベッタリだったもんねえ。それで唯ちゃんとはどうなの?あの子は那月のこと好きっぽいって思ったんだけど」
翔ちゃんをモデルにした人形の頭部を見つめて呟く。
「僕も…好きだよ…」
「あれ?そうなんだ?唯ちゃんが那月は私に眼中ないって言ったとき、寂しそうだったから那月はそんな気ないんだと思ってたけど」
思い出した途端に、翔ちゃんのことを必死に忘れようとしたときの大好きという感情まで湧き上がった。
依頼を受けたときさっちゃんが怒鳴った理由が分かって、もう売るなんて考えられなかった。
盗撮写真なら断れる、ってさっちゃんも分かってたはずなのに、さっちゃんに怒鳴られて僕が泣いちゃったせいで本当は嫌なのに許してくれたんだ。
「もう遅かった…ってことかなぁ…」
「ということは、砂月とくっついちゃった?翔のときみたいに3人仲良くって出来ないの?」
本当ならさっちゃんに1番に思い出したってことを伝えるべきなんだろうけど…。
「たぶん、さっちゃんは優しいからいいって言ってくれると思うんです…でも、邪魔、したくないって思うから…」
ちゃんと忘れずに内に秘めて、僕に思い出させないようにとずっと気を張ってきたさっちゃんが翔ちゃんに固執してしまうのも頷けた。
「んー難しいね。俺もわかんないや…」
「ごめんね、聞いてくれてありがとう。翔ちゃ、じゃなかった。唯ちゃん待ってるからご飯食べてきます」
それから電話を切って、ダイニングへと向かった。
音也くんに翔ちゃんが死んだことを思い出したと告げたとき、イスから転げ落ちたような音がして、慌てた音也くんに僕はすっと心が落ち着いていった。
たぶん、混乱していても、翔ちゃんは人形として僕の前に存在している関係も大きかったんだと思う。
「翔ちゃんお待たせ〜」
ダイニングに入れば、漫画を読んでいた翔ちゃんがテーブルに置いて立ち上がる。
「お、来たか」
そのままキッチンに移動して、鍋を温めながらサラダとパンをテーブルに運ぶ。
僕もコップと飲み物をテーブルに運べば、翔ちゃんが読んでいたケンカの王子様のコミックスが目に入って笑みがこぼれた。
「あ、そうそう那月、この写真なんだけど」
言いながら、翔ちゃんがパーカーのポケットから取り出して、テーブルの上に置いた。
覗き込めば、コンクールでヴァイオリンを演奏している、生前の翔ちゃんの写真だった。
「しょ、ちゃん…これ、どこで?」
「2階。ほら、ベランダの鍵壊れただろ?それで猫が入ってきてさ、部屋ん中まで入り込んじまって。あ、やべ、鍋…」
翔ちゃんが慌ててキッチンに火を止めに行った。
2階…僕のせいだ。扉を壊してしまったから…。
そういえば、僕の記憶では2階には2部屋あるはずなのに扉は1つしかなくて、僕が鍵を壊した部屋の大きさは広くなってはいなかった。確か、消えていた扉の先は両親がまだこの家に住んでいたとき、僕とさっちゃんの部屋でよく翔ちゃんと過ごしていた。さっちゃんも辛かったはずなのに、僕に思い出させないために部屋を潰してしまったのかもしれなかった。
「……猫…さんですかぁ。わぁ、会いたかったなぁ〜」
少し深めの大きいお皿に熱々の具沢山なクリームシチューと一緒にスプーンがテーブルに運ばれてきて、思わず「おいしそう〜〜!」と漏らせば、翔ちゃんが「だろ?」と嬉しそうにニッと笑う。
「飼い猫だったしさっさと逃がしてやったよ」
「そっかぁ…残念です」
席について手を合わせる。
「いただきまぁーす!」
「ん。いっぱい食えよ〜」
「はぁーい!」
シチューをスプーンですくって口に運びながら問いかける。
「……でも、翔ちゃんこの写真がどうかしたの?」
「いやさ、俺、こんなでかくなってコンクール出たことねえんだよな〜これって中学ぐらいだろ?」
写真を翔ちゃんの方に移動させる。
いつのかは分からないし、入賞成績とかも細かく覚えてないけど…。
「…?これ、僕も一緒に出てたときのだよ。覚えてないの?」
「覚えてないっていうか、俺ヴァイオリン小学校低学年んときに辞めたし」
翔ちゃんは高校は音楽の学校に通っていたし、翔ちゃんが事故に遭ったときもヴァイオリンを持ち歩いていた。
それぐらい、ヴァイオリンが好きだったはずなのに。
「……え?翔ちゃんって翔ちゃんだよね…?」
「何言ってんだ?当たり前だろ?むしろ、誰に見えるんだよ」
言われて、思い出す「翔ちゃん王子」と言ったときの反応。
「…翔、ちゃんです…」
としか言えなかった。
「変なやつ…」
このあと、翔ちゃんに聞かれても僕はなんて答えたらいいか分からなくて、咄嗟に言っていた。
「え、ええと…あ、そだ。僕の携帯電話、海外繋がらないから借りてもいい?」
「へ?砂月に電話すんのか?先に食っちまえよ。冷めるぞ?」
翔ちゃんが携帯電話を渡してくれて、僕は慌てて席を立った。
「うん。ごめん。ちょっとだけ話してくるね…」
返事を待たず、ダイニングを出て地下への階段を下りていく。
那月が戻ってこなくて自分の分を半分ぐらい食べてから、那月の皿にラップをかけていた。
クリームシチュー自体はおいしく出来たと思う。でも、誰かと食べているときぐらいは頑張って食べようという気にもなるけど、食欲がないのに1人で食べていても辛いだけだから残すことにした。
「ったく、電話長えなぁ…」
まぁ、那月は電話してもどこに居るか聞いてきて会いに来る、ってパターンが多かったし、今は砂月は海外だから仕方ないか。
帰りの予定もまだ正確な日は分かっていないのか教えてもらっていない。
机に置いたままだった俺の写真をポケットに入れて、温めるぐらい出来るだろうからとそれだけ伝えて部屋に戻ろうと地下への階段に行けば、階段の電気がついたままだった。
「那月――」
「――なの、きれいごとだよ…大事な人の死なら尚更忘れずに胸にとどめておくべきだった。僕は、小鳥さんたちが死んじゃったときもそうしてた。なのに、一番大事な人の死を受け止められなかったなんて…」
扉が開いてるのか、漏らさず聞こえてきて、声が震えてるのに吐き出すように言うから声をかけられなくなった。
「でも、翔ちゃんはもう僕のことなんか好きじゃないに決まってる!」
「!?」
いきなり俺の話になったのが気になって、悪いと思いつつも耳を澄ました。
「どうしてそんなこと言えるの?さっちゃんだって、もう僕のこと好きじゃないんでしょ?」
「電話越しの言葉なんて信じられない…だって、もうずっと僕とえっちしてない…」
……たぶん、俺は嫉妬するだろうけど、2人がセックスしてても仕方ないかなと思うのも本当だからなぁ…。
「…そんなの、分かんない…」
「できる、と思うけど……どうして…?怒らない…?」
少しの沈黙のあと、うん、うんと小さく言う那月が落ち着いてきたのかと思って、部屋に戻ろうと思ったとき、思わぬことを言った。
「…僕もさっちゃんのこと好きじゃなかったら、翔ちゃんとえっちするなんて許さないもん」
「は…?」
那月が砂月を好きじゃなかったら、砂月と俺がセックスするのを那月が怒る?
頭の中で反復しても意味が分からなかった。
那月は俺のことを恋愛感情として好きじゃないのに…?
いや、砂月を好きだからこそ、浮気を許せるってことか…?
そう思ったら、那月は再び予想外のことを言った。
「あ、でも…翔ちゃんにえっちするの嫌がられたらどうしよう…前、嫌だって――」
「アホか!お前ら何話してんだよ!!」
言われた瞬間、俺は勢いよく階段を降りて、扉を叩こうと思ったらアトリエの扉を全開にしていて、中を見てしまった。
これだけ声が聞こえてるんだから、扉開いてるって思ってたのに…。
真っ先に目に飛び込んできたのは驚いて目を見開く那月と、作業台のようなところにいくつか置かれた――。
「うわっ、うわああ…!!生、生首!!」
床に尻餅をついて後ずされば、背中が階段にぶつかる。
「翔ちゃん…ここ来ちゃダメって、言われてるでしょう?お仕置きしないと…ね?」
「ちょ、ちょっあれ見ちまったあとにお仕置きって何するつもりなんだよ!!俺をアレの仲間に加える気か!!」
「あぁ、あれは僕のお仕事で作ってるやつだよ〜。大丈夫。そんなの口実でえっちしたいだけだから」
「全然、大丈夫じゃねえだろ!ちょっと携帯代われ!」
那月が迫ってきて、持っていた携帯電話を奪い取る。
「どういうことなんだよ!」
「相変わらず、きゃんきゃんうるせえな。翔、これから那月とセックスしろ」
「意味わかんね……お前はそれでいいのかよ…」
「良いも悪いもねえだろ。俺は今すぐ那月を抱いてやれねえんだから」
那月が頬にキスしてきて、腰を撫でてくるからぞくぞくする。
「那月、待っ、待てって…!」
しゃがんだ那月にアトリエの中がよく見えるようになって、那月の背後にあったらしい、人形の顔に目を疑った。
「…って、あれ……俺…?」
呟けば那月の手が止まって、俺の視線の先を振り返った。
少し若返ったような幼い顔で、俺が目覚めたとき同様に髪が長いストレートだった。
「仕事って言ってたよな?俺の顔作ってどうするつもりなんだよ」
思わず携帯電話を強く握ってしまって、通話が途切れてしまった。
「………翔ちゃんのは僕の趣味だよ…なかなか女装してくれないし…」
すぐに電話が掛かってきたけど、俺は電源を落とした。
趣味だという那月が気持ち悪いわけじゃない。
俺は静かに怒りのようなものを感じていた。
「だからって、目の前に居んのに作んねえだろ…」
那月を押し退けて、アトリエの中に入ろうとすれば那月に腕を掴まれて後ろから抱きしめられる。
視界を手で塞がれて、前が見えなくなってしまう直前、死角で隠れていた壁に俺が写った拡大写真がいくつも貼られてあるのを見てしまった。
「お前は俺のこと好きじゃないくせに」
「…好きだよ…いつも言ってるでしょう…?」
身をよじって振り返れば、目隠しを外してくれた。
「……もう、いい…お前ら勝手過ぎるだろ。そんなに俺を振り回したいのかよ!俺は物じゃねえんだぞ!!」
那月に携帯電話を押し付けて、階段を駆け上がった。
「翔ちゃん…!待って!」
そのまま、俺は廊下を抜けて玄関に行くと買ってもらったばかりの新品のスニーカーを履いた。
「どこ行くの!?」
「ついてくんな!」
慌てて追いかけてくるから叫べば、那月がびくついて立ち止まる。
那月の瞳に涙が浮かんでいて、出て行くのを一瞬ためらったけど、俺は逃げるようにして家を飛び出した。
意味が分からなかった。
こっちの世界の那月は俺の見てないところで砂月に何度もキスしてたのを俺は知ってる。だけど、俺には頬だけだった。俺にとってそれは、那月が俺のことを好きじゃないと突きつけられてるようなものでしかなかった。
そして、俺は俺のことを好きじゃない那月は要らないなんて思ってないって言い聞かせながら、俺のことを好きだと言ってくれる砂月まで手放したくなくて、那月は那月でも別人だと言い聞かせてやっとで那月を諦めようとしてたんだ。
もう外は真っ暗なのに無我夢中で走ってたのと、1度しか外に出たことがないから道がさっぱり分からなかった。でも、家に帰ろうとは思わなくて、俺はたまたま見つけた公園に寄った。
公園は木で囲まれていて、風が吹くたびにざわざわと葉擦れの音がする。
ブランコの鎖がキィキィと鳴って揺れていて不気味だったから、自分がそこに座って音を鳴らしていると思うことにした。
「逃げたって何にもならねえのに…バカみてえ…」
1度か2度ほど元の世界の那月と幸せそうに過ごしている夢を見ていたから、前の那月に会いたい…そう思っていたこともあった。
だけど、砂月に振り回されている間に、元の世界に戻りたいという気持ちは飛んでいた。
分裂している2人が傍に居るから、意識が薄くなったと言う方がいいのか…。
第一、戻り方も分からないんだから、考えるのを止めたとも言える。
夜風に当たって必死に走ったからか、思ったよりも頭がすっきりしていた。
俺がこの土地を知らないんだから、俺を知ってるやつはほとんど居ないはずだ。
アイドルになればみんなが俺のことを知ってくれる。
でも、あの狭い囲いの中、那月と砂月との3人の世界も悪くないって、そう思えてたんだから不思議だ。
「ん、ん〜…わっ!!何っ!!」
背伸びしていると、ふいに手首を掴まれて驚いて腕を引っ込めれば、懐中電灯を顔に当てられる。
「君、ここで何してるの?」
眩しくて目を細めながら見ると、紺の制服を着た警官だった。
「…ぶ、ブランコしてただけです」
咄嗟に出た言葉がブランコって我ながらどうなのかと思う。
懐中電灯を頭から足までを移動させて、警官はため息を吐いた。
「…中学生ぐらいでしょ?もう10時過ぎてるんだからさっさと家に帰りなさい」
道が分からないなんて言ったら、絶対に交番連れてかれて那月を呼ばれてしまう。
俺は相手は那月とは言え、砂月に堂々と浮気しろと言われたこともショックだった。
混乱させられたまま、那月は俺のことが好きじゃないくせにセックスしようだなんて、理不尽なことを言ってるんだと反省して欲しい。
那月を悲しませるなら別れろ、それは那月と付き合ってる前提の話であって、俺は言われるままにセックスしたいとは思わない。
つーか、あいつらは体ばっかりなのかよ…。
「……もしかして、家出じゃないだろうね?」
黙っていたら、図星を指されてしまった。
「ち、違うって…もう帰るから…」
「じゃあ、近くまで送るから」
「1人で平気――」
「1人で帰らせて、何かあってからじゃ困るんだよ。家出でも困るしね」
道も分からないままフラフラつき合ってもらうわけにはいかないし…。
「わ、わかった。真っ暗で道分からなくてさ、駅まで送ってくれたら後はわかるから」
「よし、行こう」
しばらく歩いて駅まで着くと、その周辺はまだ明るくて帰る人がちらほら居た。
駅から動こうとしなかったら質問責めされたけど、酒に酔ってリバースしてる人が居て、警官がその人に気を取られているうちに、人にまぎれるようにして逃げることにした。
1度駅に来たことはあっても、家までの道を覚えたわけじゃないから、ブラブラしているだけだ。
それから、立ち読みで時間を潰そうと途中で見つけたコンビニに立ち寄った。
家に飛び出してから走って上がった体温が落ちてパーカーだけじゃ寒くなってきていたから、少しだけコンビニの暖かさにほっと息を吐いた。
漫画雑誌を取ろうとしたとき、ほかの人の手とぶつかった。
同時に手を引っ込めて、同時に謝罪の言葉を発する。特にその雑誌に目的があったわけではないから、別の雑誌を手に取ってぱらぱらと捲っていると、突然横から顔を覗き込まれた。
「わっ…!」
驚いて飛び退けば、目の前には赤い髪を揺らした音也が居た。
「…翔?」
やばい…女装してないのに。
というか、外に出るたびに何で音也と会うんだよ…。
「こ、こんばんは…」
苦し紛れで声のトーンを上げて微笑めば、音也は納得したような顔をして手の平に拳でぽんと叩いた。
「あ〜もしかして、唯ちゃん?髪切ってるからさ〜一瞬わかんなかったよー。ショート似合うね!こんなとこで何してるの〜?那月は?」
「家だよ。ちょっと、立ち読みに来ただけだからもう出ちゃうね」
慌てて雑誌を棚に戻して、手を振ってコンビニを後にした。
一瞬、音也の家に泊まらせてもらおうかとも思ったけど、あとから砂月が知ったらキレられそうだからと止めることにした。
あれ…何で音也は俺の本当の名前を知ってるんだ…?
音也は俺のこと知らないって砂月が言ってたのに。
翔ちゃんが出て行ってしまった後、足が動かなくて僕はその場で立ち尽くしていた。
少し前…翔ちゃんと食事を取っているとき、僕は写真の翔ちゃんのことを当たり前のように話したら、人形の翔ちゃんが違う人生を歩んでるようなことを言っていて、混乱してアトリエに戻ってさっちゃんに電話をかけた。
「さっちゃ、電話、大丈夫?」
「那月…?あぁ、平気だ。どうした?なんかあったか?」
まずは生前の翔ちゃんのことを思い出したと伝えなければならない。
僕は深呼吸してから小さく言った。
「僕、2階行って」
「…2階?行くなって言ったろ?」
返ってくる言葉はとげとげしいものではなく、怒鳴られなかったことに少しだけほっとした。
「僕が、翔ちゃんのこと思い出しちゃうから…?」
「……まさか、思い出したのか…?」
肯定すると、さっちゃんは思っていたよりも優しい声音で話すから少し驚いた。
「そうか…大丈夫か?せめて俺が傍に居るときだったら…いや、それでどうした?」
「怒ってない?」
「怒るわけないだろ……お前が昔みたいになると思って、思い出させないようにしてただけだからな。落ち着いてるように聞こえるが、どうなんだ?」
それを聞いて落ち着いて、開けっ放しになっていたアトリエの扉を閉めて、イスに腰掛けた。
「僕は大丈夫…でも、僕が戻し損ねちゃったらしい2階の写真を翔ちゃんが見ちゃったみたいで…中学の頃のコンクールの写真だけなんだけど……翔ちゃんが言ってることがおかしくて…」
少しの沈黙のあと、さっちゃんは心当たりがあるのか含みを持たせて言った。
「まるで、別世界を生きてきたような…か?」
「う、うん。翔ちゃんは小学校でヴァイオリンやめちゃったって。これ、どういうことなの…?僕、思い出したとき翔ちゃんは翔ちゃんだと思ってたのに、翔ちゃんじゃないの…?」
「…落ち着け」
頷くと、さっちゃんは淡々と説明してくれた。
「それについてはよく分かってない。あの本の一部のページが抜け落ちていて、そこに何か書いてたのかもしれないが、人形の翔は俺たちの知ってる翔ではなく、別の記憶…別世界か何かの俺たちと過ごしてた記憶を持ってる。音也や一ノ瀬のことに関しても、別の2人を知ってるんだ」
「じゃ、じゃあどうしたらいいの?どうやって翔ちゃんと話したらいいの?」
「俺は翔自身の事を聞かれてもはぐらかしてきたからな。音也や一ノ瀬のことは少しだけなら話してあるが、俺と翔がどこで出会ったなどの翔との過去は一切話してない」
さっちゃんの話を聞きながら僕はドイツ語の本の抜けていたページのことを考えていた。
そして、翔ちゃんが動いた日、本を見つけたときにぱらぱらと何枚か落ちて棚に戻していたのを思い出した。
「僕、書庫に切れ端がないか見てみる。切らないでね」
「…だが、俺も随分探したぞ?」
アトリエを出て、すぐ隣の部屋の扉を開ける。
電気をつければ、天井につくほどの本棚が大量に並んであって、本やノートなどがびっしりと棚を埋めている。
ドイツ語ばかりの棚は一番右奥で、もっと手前のフランス語の本と本の隙間に置いた紙を探す。
「ううん。翔ちゃんが初めて動いた日、僕が本取りに言ったでしょ?あの時、慌ててて、何か落ちたやつを拾ってどこかに置いちゃったの………あ、あった。ちょっと訳すから待って…」
ほどなくして切れ端を見つけると、電気を消してアトリエに戻る。
掠れている文字はそれほどないのにほっと息を吐いた。
日常会話で使わない単語ばかりで分からない単語をパソコンで調べながら訳していく。
「えっと、魂…?のこと書いてる…宿る魂は冥府から呼び寄せたわけじゃなくて、演奏者の今の世界とは別世界での演奏者…僕?に一番強く結びついている魂が人形に召還されたということ。そして、僕たちの世界にその同じ魂がすでに存在しないことが前提条件……これって…平行世界…?」
「それだけ書いてたのか?」
切れ端はほかにもあるけど、そっちは掠れている文字ばかりでドイツ語が苦手な僕は単語を察しながら読むことが出来なかった。
短く肯定すると、さっちゃんはすぐに状況を説明してくれた。
「人形の翔は少なくとも、ここが別世界であることを理解した上でパニックを起こさずに暮らしている。人形であることを無理に教える必要もないし、俺は別世界に戻してやるつもりはない。第一、そこに書いてあることが正しいとも限らない。こっちの世界の翔のことは話さないことと、俺たち以外に翔の存在を知られるわけにはいかない。だから、外…表向きは唯として暮らさせる」
「でも、でも…翔ちゃん、本当は女装したくないんでしょう…?」
「自由に出られでもしたら、原動力であるキスの力がいきなり切れて突然動かなくなることもありえるんだぞ?そんな危険なことさせるわけにはいかないからな。少しでも抑制がある方がいい。大丈夫。あいつは…肝が据わってる…」
僕には大学のほかにヴィオラの練習や、納品するための人形を再び作らなければということもあって、ほとんど翔ちゃんに構ってあげられなかったし、生前の翔ちゃんの記憶を封じ込めていたから、今までなんとか過ごして来れたんだと思う。
そして、さっちゃんが翔ちゃんにヴァイオリンを弾かせないようにしていたのが不思議だったけど、僕のためだったんだと気づいた。
「…演奏者のって、別世界の僕の運命の相手ってこと…?さっちゃんは…?違うの…?」
「それは…翔が一度、俺は那月の中に居る父親みたいな存在だと口走っていた」
「…?わかんないよぉ」
「俺もよくわからねえが、翔は那月とは恋人だって言ってたからな。それで向こうの俺は反対してたんじゃねえか」
「………だから、翔ちゃん僕に優しくて、さっちゃんと喧嘩ばっかり……ね、さっちゃ……僕、邪魔――」
「そんなわけないだろ」
言葉を遮るようにして言われて涙が出そうだった。
音也くんに「邪魔したくないから」と言った言葉は本音だった。
さっちゃんが否定してくれるって分かってても、言葉で言ってもらわないと僕は辛かったんだ。
「だって、翔ちゃんはさっちゃんが好きで、さっちゃんも翔ちゃんが好きでしょ…?」
「あいつは那月も好きだろ?お前は翔のことを忘れてても、翔のことを好きだと認識してなかったら――」
「そんなのきれいごとだよ…大事な人の死なら尚更忘れずに胸にとどめておくべきだった。僕は、小鳥さんたちが死んじゃったときもそうしてた。なのに、一番大事な人の死を受け止められなかったなんて…」
吐き出すようして言った言葉は声が震えていて、上手く伝えられてるのかも分からなかった。
「そうしなければ、お前が壊れてしまうと判断したからだ。今、悔やむことじゃない」
「でも、翔ちゃんはもう僕のことなんか好きじゃないに決まってる!」
「だからなんでそうなるんだよ。そんなわけ――」
「さっちゃんだって、僕のこともう好きじゃないんでしょ?」
「頼むから落ち着いてくれ。ありえないだろ。俺は那月を愛してる」
怒鳴ることもせず、さっちゃんは優しく囁いてくれた。
でも、僕はグアムに行く前、翔ちゃんを連れて行けないと悲しむさっちゃんを慰めようとお風呂で迫った。
そのときさっちゃんに拒まれて、僕はセックスでしか慰め方を知らなかったんだと気づいた。
だから、わざわざ翔ちゃんの部屋に携帯電話を取りに行くと告げて「すぐ戻るから」と付け足した。
「電話越しの言葉なんて信じられない…だって、もうずっと僕とえっちしてない…」
「…俺は7日まで会うことも出来ない。どうすればいい?どうしたい?」
翔ちゃんを誘うフリをしたのはさっちゃんと翔ちゃんの仲直りもあったけど、僕も、さっちゃんに拒まれて悲しかったから慰めて欲しいって気持ちがあって、正直言えばあのときさっちゃんが来ても来なくてもどっちでもよかった。翔ちゃんにも拒まれはしたけど、きっと理由を伝えたら慰めてくれるって…期待していたんだ。
「…そんなの、分かんない…」
「分かった。那月、翔とセックスしろ。思い出したんなら尚更、俺がいなくても出来るだろ?」
僕は息を呑んだ。
「できる、と思うけど……どうして…?怒らない…?」
「いつまでも勘違いしてんな。俺は那月が好きだから許せるんだぞ?」
「うん、うん…僕もさっちゃんのこと好きじゃなかったら、翔ちゃんとえっちするなんて許さないもん」
それから、気持ちが一気に軽くなって、僕は目の前で動いている翔ちゃんを見ているだけでこんなにも嬉しいんだと胸が高鳴っていた。
でも、僕は翔ちゃんの言う通り勝手だったんだと思う。
さっちゃんと翔ちゃんの中を取り持つために翔ちゃんに迫ったとき、翔ちゃんは僕の好きという気持ちが恋愛感情じゃないと言った。
今は恋愛感情だときっぱり言えるけど、今のこの熱い気持ちを思えば、あれは「慰めて欲しい」という気持ちと一緒に「好きかもしれないから、セックス出来たら僕は翔ちゃんのことが好きなんだ」と確認しようとしていた状態だったんだと分かる。
そんな印象を与えておいて、ちゃんと伝えもせずに突然セックスしようだなんて誰だって怒るに決まってる。僕は翔ちゃんの優しさに甘えてたんだ。
震える手で翔ちゃんに渡された携帯電話の電源をつけてさっちゃんに電話をかけた。
「那月か!?翔!?」
慌てた声が飛び込んできて、大変なことをしてしまったんじゃないのかとずきんと胸が痛んだ。
家に居ても何にもならない。僕はコートを羽織って家を飛び出した。
「さっちゃ、どうしよう…翔ちゃん出て行っちゃって…」
「っ………とにかく…探すしかない。もう夜の…10時回ってんだろうから、補導でもされてたら厄介だが…」
翔ちゃんは1度しか外に出たことがないから、道を覚えてないかもしれないし、電話番号も覚えてるかどうか分からない。そもそもお金も持っていないはずだった。
電話を繋いだまま、闇雲に走り回っていると、さっちゃんが舌打ちをした。
「どうしたの…?」
「キャッチだ。すぐ繋ぎ直すから、落ち着いて探すんだ。いいな?」
「う、うん…」
翔ちゃんの携帯電話から音楽が流れ始めたかと思うと、今度は自分の携帯電話の音が鳴った。
それは音也くんからのメールだった。
『唯ちゃんは今俺ん家に居るよ。あ、トキヤも居るし、俺でも流石に手は出さないから信用してね!』
幸いにも音也くんの家は近い、そう思って走り出そうとしたとき、最後の一文で足が止まった。
『それと唯ちゃんからの伝言「今は会いたくない」だそうだよ』